「なんか英語話して」って何だ。
「ねえ、なんか英語話してよ。」
またか。
同級生からのこんな質問は日常茶飯事だ。適当に英語をつらつらと話せば「かっこいい~!」とお決まりの反応が返ってくる。小学校から高校まで、このやり取りは何度も繰り返してきた。
父親がイギリス人で、見た目もどこか西洋寄りで、家では英語を話して、勉強をしなくても英語のテストで満点をとれる私は、きっと周りの子のもつ「ハーフ像」にぴったりとはまる存在だったのだと思う。「外国人」が英語を話すのを生で見てみたいという好奇心が「英語話してよ。」という意味のないクエストを発生させるということを今となっては理解できているが(これはこれで勉強熱心で良いと思う。)、適当な英語を話していることの何がそんなに面白いのだろうか、小学生のころの私は、自分がおもちゃのように使われる理由が心底理解できなかった。そして、毎回「何を言えばいいんだろう」と悩まなければいけないことにいい加減うんざりしていた。
「いいじゃん、俺なんて英語が話せないだけですげぇ馬鹿にされんだよ?」
おもちゃにされているのは私だけではなかった。同級生で同じハーフのジョシュアも、「英語話してよ。」というわけのわからないコマンドに翻弄されているひとりだった。しかし、アルゼンチン出身のラテン系ハーフの彼だが、英語を話すことはできず、日本での暮らしが長い影響で母国語のスペイン語も忘れているため、日本語しか話せない。そんな彼にとって、この問題は私とは全く別の意味で厄介だったりする。
「俺はあいつらと同じ日本人で、あいつらと同じで英語が話せないのに、勝手に失望されるんだ。差別だろそんなの。君が全自動英会話人形なら、俺はその不良品って感じ。」
思わず吹き出してしまった。
「全自動英会話人形って…そこまでじゃないでしょ。」
「君は知らないんだ、だっせーとか言われる気持ち。俺より楽なのに贅沢言うなよ。」
「スパニッシュはなんで話せなくなったの?」
「だって日本じゃ誰も外国語話さないじゃん。日本語だけで生きていけるから忘れちゃった。」
通学路、木の棒を振り回しながらそういう彼は特に気にしてなさそうだった。私もぶっちゃけるとどうでもよかった。少なくとも、当時日本人の小学生として過ごしていた私たちにとって、日本語さえ話せれば何も困らなかったし、まだ言語について特に難しく考えるような年頃でもなかったのだ。
そんな私たちにとって、「ハーフ=英語話せる」みたいなステレオタイプはちょっと荷が重かった。特に同級生からの視線や期待は、学校生活に影響が出ないか気になって、面倒くさくても結局応えようとしていた。応えられないと、同じ人種で同じ国に住むはずの仲間から爪弾きにされる、という心配もあった。
せめて、ハーフでもクォーターでもなんでも、様々な言語的背景があるということをより多くの人が理解してくれたらいいのに。定着してしまったステレオタイプはなかなか消えないけど、「英語話して」というリクエストに応えられなかったときに、「あ、そうなの?」という程度に受け止めてくれたらいいのに。同族からすでに異質の存在として扱われているミックスルーツの人たちは、ひょんなことで完全に差別される可能性があるという危機にさらされていたりするのだ。
「ほんとさ、英語話して、って何なんだろ。聞いてどうすんだろうね、わかんないくせに。」
「いつも英語で何言ってるの?」
「適当に思いついた単語とか、自己紹介とか。どうせ何言ってもかっこいいとしか言わないから…」
一瞬沈黙が流れた。ランドセルを並べて信号待ちをする。
「何言っても結局わかんないってことはさ」
ジョシュアが切り出した。
「ふざけたこと言っても、英語でならバレないってこと?」
彼の方を向いた。そこには、栗色の髪と青い目がもったいなくなるような、とんでもなく悪そうな顔があった。
そしてきっと私の顔にもそんな表情が浮かんでいたと思う。
後日。
「ねえ、なんか英語話してよ。」
「なんでもいいの?」
「いいよ!」