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中公新書 藤野裕子『民衆暴力』──暴力を行使する論理を読み解く
私たちは歴史を学ぶとき、どこかで無意識のうちに「正しい知識」を得たと思い込んでしまうことがあります
しかし、その「正しさ」は時に偏った視点に基づいているかもしれません
心理学の概念で「スコトーマを外す」という言葉があります
これは、見えていなかったものに気づく、つまり心理的盲点を取り除くという意味です
藤野裕子さんの『民衆暴力』は、まさにこのスコトーマを外してくれる一冊です
本書は、日本の歴史における「民衆の暴力」を総括したものです
中世の一揆から、近代の日比谷焼き討ち事件、そして関東大震災における朝鮮人虐殺まで、日本における暴力の歴史を紐解きます
一揆の実態──私たちが持つイメージとのズレ
一揆と聞くと、多くの人は「武具を持った農民たちが暴動を起こし、焼き討ちをする」といった荒々しい光景を思い浮かべるのではないでしょうか
しかし、本書ではこのイメージが実態と異なることを指摘しています
例えば、一揆を組織する際には「連判状」と呼ばれる誓約書が作られましたこの中には、規律を維持するための厳しいルールが記されていました
その内容は、飲酒の禁止、放火・盗みの禁止、そして蓑笠の着用など、意外にも秩序を守るための規定が多かったのです
また、17〜18世紀に発生した百姓一揆において、実際に放火が行われたのはわずか2件のみだったといいます(P8「民衆一揆の作法」)
一揆=暴力的な破壊活動というイメージは、歴史を単純化したものにすぎないのです
刀狩りの誤解──完全な武装解除ではなかった
一揆のイメージと並んで、戦国時代の「刀狩り」についても誤解が広がっています
「刀狩り=農民の武装解除」と理解されがちですが、実際にはそうではありません
刀狩りは、単なる武器没収ではなく、「兵農分離」を目的とした政策でしたすべての農民が武器を持つことを禁じられたわけではなく、農民が戦士の身分から切り離され、戦闘集団としての機能を失うことが重要視されていたのです
つまり、刀狩りは武器を完全に奪うものではなく、社会の仕組みを変えるための政策だったと言えます
関東大震災と朝鮮人虐殺──暴力の論理を考える
本書の後半では、1923年の関東大震災における朝鮮人虐殺について詳しく考察されています
この事件では、地震直後に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こした」といった流言飛語が広まり、それを信じた民衆が暴力に走りました
本書は、このようなデマがどのように生まれ、なぜ人々がそれを信じてしまったのかを解き明かします
震災直後の社会的混乱の中で、人々は不安を抱え、何らかの「敵」を求める心理が働いたのではないかという視点を提示します
また、暴力を行使する側には「正義」の意識があったことも指摘されています
彼らは単なる悪意や憎悪ではなく、「自分たちのコミュニティを守るために必要な行為」として暴力を振るったのです
この点において、暴力は突発的なものではなく、一定の論理に基づいていたことがわかります
民衆の暴力はなぜ繰り返されるのか?
歴史を振り返ると、民衆による暴力は繰り返し発生してきました
それは、一揆のような組織化された行動であれ、震災後の虐殺のような突発的なものであれ、共通する要素があります
それは、暴力が「正当化」される論理の存在です
本書は、「なぜ暴力が起こるのか?」を考えるための視点を提供してくれます
私たちは、過去の暴力を単なる歴史の出来事として片付けるのではなく、そこにあった社会の構造や人々の心理を読み解くことで、未来への教訓を得るべきなのです
『民衆暴力』は、歴史の「スコトーマ」を外し、見落としていた視点を提示してくれる一冊です
歴史に興味がある人はもちろん、現代社会の暴力の構造を知りたい人にもおすすめできる内容となっています