【エッセイ】江戸時代の花見と徳川吉宗と飛鳥山の話について思ったこと(『佐竹健のYoutube奮闘記(10)』 増刊号)
この前、Youtubeに『【春の特別企画】お花見今昔物語~桜の種類と江戸時代のお花見と~』という動画を投稿した。内容は、桜の種類や花見の歴史について話したものだ。
動画の制作は2月下旬から進められていた。
梅の動画を撮るために向島百花園へ行ったり、河津桜の素材を撮りに鷲宮へ行ったり。桜シーズンが始まったころには、飛鳥山や上野にも足を運んだ。そして、花見の歴史を調べるため、毎日図書館に通った。
これまでにいろいろな動画を撮っているが、今回の春特別企画は、Youtubeチャンネル設立して以来、一番制作に手間がかかったのは確かだろう。
※
動画を作る際、図書館で文献調査をした。
文献調査では、明治以前の桜は山桜などが主流であったこと、桜にも様々な種類があることなどがわかった。
桜について知ったことの中で、興味深かったのが、江戸時代のお花見事情と徳川吉宗と飛鳥山の話だった。
江戸時代の花見というのは、現代のそれと同じように、桜の木の下でお弁当を食べたり、お酒を飲んで騒いだりしていた。ただ、現代の花見と違うのは、仮装や茶番劇が行われていた、ということだ。
この事実を知ったとき、私は、とても楽しそうだな、と思った。桜の木の下で、助六や白波五人男の格好をして楽しんだり、何かハプニングが起きたかと思ったらドッキリだったり。花だけでなく、コスプレやちょっとした劇も楽しむことができるのだから、にぎやかなことが好きな江戸っ子が、ウキウキするのもよくわかる気がする。
また、単純に花を見るという意味では、江戸時代の人たちは桜に限らず梅や菊なども愛でていたそう。特に梅は亀戸の梅屋敷や現在の向島百花園、蒲田の梅園が有名だったらしい。
徳川吉宗と飛鳥山の話は、こんな感じだ。
江戸の花見と言えば、元禄辺りまでは上野の寛永寺が一番の名所だった。今でいえば、ちょうど上野公園の辺りだ。
だが、上野寛永寺は徳川将軍家の菩提寺。ここで酒に酔った人や子どもが不敬をはたらいて欲しくない。また、にぎやかな花見を催せば、迷惑になる。
このような背景から、上野寛永寺の花見では、飲み食いや楽器の演奏には厳しい制限があった。
それでも、上野の花見は人気で、江戸の庶民は毎年多くの客が来て、楽しんでいた。
人気な上野の花見。でも、幕府としては迷惑行為を防止したいので、上野の花見客をどうにか減らしたい。これについて、吉宗は、
「江戸に遊ぶところが少ないから」
という答えを出した。そして、隅田川の堤や王子の飛鳥山などに桜を植え、そこを「新・桜の名所」とした。
隅田川の堤や王子の飛鳥山といった「新・桜の名所」は、制限が無いということから、庶民に人気が高まり、定着していった。
特に王子の飛鳥山については、吉宗自身が宴を開いて「新・桜の名所」としてPRしたのだそう。
また、吉宗は花見から帰ってきた幕臣に、
「みんな花見を楽しんでいたか?」
「地元の店は賑わっていたのか?」
と聞いていたと伝えられている。
江戸の花見について動画で紹介したことは、大体こんな感じだ。
調べていてわかったことは、
「やっぱり日本人はいつの時代も桜が好きなんだな」
ということだった。
平安時代の貴族で、歌人としても名高い在原業平が、
と詠んでいるように、日本人にとって、桜という花は咲いているだけでも心が騒ぐ、特別な花だ。中には「桜が咲く2月に死にたい」という和歌を詠んだ平安末期の僧侶のような狂おしいほどの愛情を持っている人がいるほどに。だから、江戸時代の人が桜の花の下で楽器を演奏したり、コスプレや茶番劇をしたりして楽しみたくなるのも、少しわかる気がする。桜の下やそれを背景にそうしたものを楽しむのは、絶対見栄えがいいだろうから。
飛鳥山の話については、吉宗が庶民派の将軍として知られるゆえんがよくわかった。
迷惑だからといって、なんでもかんでもお上の力で制限するのではなく、新たな楽しみの場を設け、そこで目いっぱい楽しむことを許したからだ。そして、そこで働いている人や客のことを気遣えるところもポイントが高い。
もちろんそこには、御公儀の意向もあったであろう。けれども、それが回りまわって庶民の文化や経済の発展に影響を与えたと考えると、吉宗がいかに偉大な庶民派の名君だったかがわかる。時代劇でヒーローとして描かれるのも道理だ。
あと、関係ないが、今年も桜を楽しむことができた。こうしたきれいなモノを見るだけでも癒しになるので、厄年で心が常に鬱々としている私にとって、とてもいい保養になった。
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