【エッセイ】スキマスイッチ『奏』と照れくささと一緒にいる時間
作業中、YouTubeでよく音楽を聴いている。聴いている曲は、J-POPからロックバンドの曲、アニソンまで幅広い。
ちなみに私の一番好きなアーティストであるスピッツの曲は、あまり聴かない。スマホで音楽を購入して、電車やバスの移動時、家事の合間によく聴いているのもある。だが、YouTubeで音楽を聴くという行為は、好きな曲やアーティストを探すことが大きな目的となっている。作業用BGMと同じくらいに。
YouTubeで音楽を聴くのは、作業用BGMでもあり、新たなジャンル開拓のためでもあるのだ。
最近YouTubeでの音楽鑑賞をしていて、胸に来た曲があった。スキマスイッチの『奏』だ。初めて聴いたのは本家本元のスキマスイッチではなく、高木さん(声:高橋李依)の方だったが。
歌詞解釈としては、ラブソングというより、親子の歌と考えた方がいいだろう。サビの、
という部分だろう。
「どうか、この子がたくさんの幸せに恵まれますように」
そんな親が子供に対して願う、細やかな祈りを代弁しているように感じられた。
同時に『奏』は、親子の別れの歌だと私は考えている。歌詞の中で、現在と回想を行き来しているからだ。
進学や就職で子どもと離れて暮らすことになった子どもに、何か伝えたい。けれど、何を伝えたえればいいかわからない。「さよなら」と言いたいけれど、今さら照れくさくて言えない。子どもがまだ幼かった日のことを思い返してみる。楽しかった子どもと過ごした日々が頭の中を走馬灯のようによぎる。そして子どもと別れる最後のときに、
「いつもどんなときも応援してるよ」
「いろいろなことがあったけれど、お前との日々は楽しかった」
と言ったのだろう。そうして子どもは旅立っていった。
そのとき僕が気づいたのは、どんなに離れていても心は繋がっていること。そんな感じだろうか。
初めてこの歌を聴いたとき、久しぶりに涙を流してしまいそうになった。
あることがあってから、私は涙を流すことを忘れてしまった。いや、涙の流し方がわならなくなった、という方が正確かもしれない。それに悲しみすらも感じなくなった気がする。ただ、笑いすぎたり目にゴミが入ったときは流れた。
「伝えられないもどかしさ」
特に第二のテーマであるこの部分にとても共感した。
私自身そこまで口達者な方ではないので、自分の口から発した言葉で人に何かを伝えることはできない。必ずと言っていいほど、何か言うときはどもったり、頭の中がパニックになったりする。
そんな不器用な私だったからだろうか、父親である僕の気持ちが少しわかる気がする。
別れるからといって、ずっと会えないわけでもない。だから、
「さよなら」
と言うのも何か違うし、今さらドラマとかでいいそうな陳腐なセリフを言っても引かれる。それよりも照れくさくて、何と言っていいかわからない。こういったことがよくあるので、とても共感できた。
同時に、一緒にいた時間があるから繋がっていけるという部分も、第二のテーマと同じくらい胸を打った。
たとえ血がつながっていても、やはり「一緒にいた時間」には勝てない。形だけの関係は言うまでもない。一緒にいた時間は、共に過ごした人の一部、そして自分の一部となるからだ。
そうして幾星霜の時を経て、
「あんなこともあったね」
とか、
「こんなこともあった」
と恥じらいと楽しさ半分の笑顔で語り合える。これは親子だけでなく恋人や夫婦、友達にも言えるのだが。
一緒に過ごした時間を共に語らい合える相手がいるのは、やはりいいものだ。その分大事なことを伝えるときは、照れくさくもなるけど。