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コミュ障がヒトと話すときに考えていること

 私は話すことが苦手だ。キャスを聴いたことがある人はわかると思うが、私はいつも、どこかたどたどしい感じで話している。話し手である自分ですらそう感じるのだから、聞き手はなおのことそう感じているだろう。

 ここで、「なぜキャスをやっているのか?」という疑問が生じる。

 これは、単なるファンサービスの一環に過ぎない。私の声を聴いて、いい声だ、と言ってくれた人が過去にいたからだ。そうした人の期待に応えようと、善意で下手な話術を駆使してやっているに過ぎない。もし、この褒め言葉が無かったら、私はずっと聞き専であっただろう。


「言うほどコミュ障じゃないじゃないか」

 過去に私はそう言われたことがある。けれども、心の中ではいつも、

「怒られないだろうか」

「ちゃんと伝わっているだろうか」

 と虎の尾を踏む思いで何かを話している。相手の反応を極度に恐れているからだ。

 人間の地雷というものは、どこに埋まっているかわからない。自分にとっては些細なことでも、相手にとっては、それがナイフで刺されたときのような痛みを伴う場合がある。もちろんそうしたものは、人間とケモノの間にいる私にもある。聞かれて気まずくなったことは何度会ったことだろうか。もちろん反対も然りだ。それを聞かれたり指摘されたりする痛みを誰よりも知っているからこそ、なおさら恐ろしく感じるのだ。

 だから、伝わらなかったときにパニックになるし、答えられなかったらどんなことを言うだろうか、と恐怖を感じる。

 臆病な私から言葉がバンバン出てくる場合、相手の素質によるところが大きい。私から言葉を引き出せる人間は、本当の意味でのコミュニケーション能力が高い。ここで言う「本当の意味でのコミュニケーション能力」とは、聴く力や相手を気遣う能力のこと。言い換えるならば、人間として必要な能力が高いということだ。そう私が自信を持って保証する。

 反対にろくでもないと感じた人間の前では、私はできるだけ話さないことにしている。言った言葉が、後になって彼らの言質にされるのが怖いからだ。それに「どうせ聞いてもらえない」と思っているのも大きい。無理やり聞かせて争いになるくらいなら、余計なことは言わず黙っていた方がいい。沈黙は金という思考だ。

 人が思っているほど、私は会話が上手ではないうえ、怖がりな生き物なのだ。

 最近になってからは、口下手でもいいな、と思うようになってきた。

 道化を演じて自分をやたらに飾り立てたり、誰かに媚びるために自分を偽ったりしなくて済むからだ。それ以前に、私とご世間様が求めている、明るくて有能で話し上手とでは、そもそも頭の出来が違う。だから、話し上手を目指すのは諦めた。

 これからは、聞き上手で思いやりのある剛毅朴訥な人間を目指していこうと思う。私には口先だけの話し上手は向かなかったから。

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佐竹健
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