走りたい
走りたい。
10代のころ、それは感情が溢れることがまだ日常だったころ。好きなバンドの曲で盛りあがったり、ぐるぐると考え続けた末になにかを投げだしたくなったとき。街中で突然、走り出してしまいたくなることがあった。そのうちの何度かは、本当に走り出してしまったりもした。
街中で突然、リクルートスーツを着た大の大人が、走り出したら──。今思えばあのころの私はまだぜんぜん子供だったけれど。街中でもし、そんな人とすれ違いでもしたらどうだろう。きっとみんな、こいつは気がふれていると思うんじゃないかな。私だって、もちろん当時の(あのとき走り出してしまった)私だって、そう思うんだから。
ここで、ひとつみなさんにお願いです。もし明日街中でそんな人がいても、あなたがもしそんな人に出会ってしまっても、どうかお構いなく。だって、みんなそれぞれがそれぞれの時間を生きていて、それでこそ世界は、こんなにもすばらしいとは思いませんか?
だれも興味はないだろうけど、話したい。私が「走りたい」という気持ちを手に入れたときの話。体育の授業は嫌いだった。マラソン大会でもうしろから数えたほうがはやかった私が、なぜか突然、「走れる」気がしたのは、小学6年生のときだった。
あの日のことを忘れることは、多分、これから先もないと思う。
ある日、体育の授業。迫るマラソン大会に向けて、本番と同じコースを走ってみましょうというのが、その日の授業計画だった。グラウンドの中心で準備体操をし、ジョギングへうつる。ジョギング特有の揃った足音を聞きつつすこし走っていると、そのうちになぜか突然、「走れる」気がしてきた。体が軽いとかそういうことではないけど、なぜか走れるきがしてきた。なんの根拠もなく。唐突に。思い切り走ってみたくなった。そのとき、私は気が付いた。それは、いままで自分は本当に本気で、すべてを出し切るように走ったことがなかったことに。
よーい、スタート。
マラソンコースを走りはじめた。いつもきまって一番をとる子のうしろにぴったりとついて走った。すぐに息が苦しくなった。口が大きく開いた。脚も腹も痛かった。でもどこか奥のほうに、空気の味や全身にテンポよく伝わる振動と混じった、でもほんとうにありのままの喜びがあった。私は走りたかった。メロスほどのなにかがあるわけではなかったけれど、ただ走りたくて、その思いのままに走りつづけた。
そのまま先頭集団について走った。頭の中は、ホワイトアウトしたかのようにまっしろので、それでいてまっしろのキャンバスのように、あてもなく自由だった。手がすごく冷たくなって、ぎゅっと拳を握った。身体は燃えるようにあつく、見慣れた街の景色や田園風景が、まるで自分の一部であるかのように思えた。自分がこの世界の一部であることを、世界とは遠くのどこか知らない国のかたまりのことなんかじゃなくて、いまこの目の前のすべても世界で、この私ですらも、世界なのだと。そんな、すこし考えてみればわかるような当たり前のことに気が付き、大発見!と全身で叫ぶようにして。なんとかそうして、最後まで。
以上が、私と「走りたい」の馴れ初めである。そしてこれは私と、世界との馴れ初めでもある。と思う。
まぁほとんどこの「走りたい」という気持ちのせいで、これから学生時代のほとんどをいじめられて過ごすことになるんだけど、それはそれでもう、今となっては仕方ないことのようにすら思える。
今年に入って、私はまた走りはじめた。この街に越して来て約一年。ようやく見慣れてきた街を走るたび、どんどんそれが体に馴染んでいく気がする。
本当は、いつかフルマラソンに出てみたいと思ってはじめたのだけれど、飲んでいる薬と自分の体質的にはどうやら難しそうだということが近頃分かった。ちょっと落胆したけど、ただひとりで好きに走るのを楽しめるというのは、それこそ大人の特権かもしれない。