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メビウスの認知を越えて - 『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』

インターネットやめろなんてうそぶくオタクを尻目に、俺はインターネットを大いに楽しんでいる。

幸いなことにフォローしてくれる人はそれなりにいるし、ゲームや映画といった好きなコンテンツに対する意見や感想を交わすこともできている。このnoteだって、書き記すという行為自体が楽しくて意味のある行為だと思えているから続けられている。

だが何事も、常にうまくいくとはかぎらない。自分の言葉が足りなかったばかりに誤解を生んでしまったり、そもそも自分が誤解してしまっていたせいで不和を生んでしまうことがある。そうして生まれた舌禍がアルゴリズムによって助長され、インターネットが人の悪意の坩堝に見えることも少なくない。実際、そうなってしまったときにできることはインターネットをやめることくらいだ。

当然、俺自身もそういう揉め事とは無関係ではいられない。たとえば、あるゲームについて否定的な意見をポストしたら予想より広く拡散して驚いたことがある。どういうことかと思いリポストした人をたどってみたところ、俺のことを熱く手酷く詰る内容が書かれていた。曰く、「ゲーム下手」「チュートリアルも読めてない」「こんな体たらくでレビューを書くなんてありえない」エトセトラ、エトセトラ。

たしかに、俺の意見には事実誤認が含まれていた。

俺はそのゲームの戦闘システムをすべて把握しないままプレイしていて、そのせいで無駄なストレスを抱えてしまっていたのだ。だから「チュートリアルも読めねえのか」という指摘そのものは間違っていないし、その点をもってゲーム下手だと判断するのも無理はない(俺が自分をゲーム上手だと自認したことはないが)。間違った認識に基づいてゲーム側を悪く言ったことについては、自己弁護の余地もない。この場で改めて謝罪しておこう。

誤解は巡り、そして解けないものだろう

しかし、本当に辛かったのは指弾されたことそのものではない。それをもとに誤解が一人歩きし、成長してしまったことだ。とくに、「こいついつもゲーム貶すためにゲームやってんな」というポストを見かけたときは思わず大きなため息が出た。自己嫌悪に陥りそうになってしまった。

けれど少し時間が経つと、今度は自己嫌悪に怒りの熱が帯びてきた。ジョジョでいうなら、シアーハートアタックに追いかけられているときの康一くんみたいな感じだ。俺がゲームを貶すためにゲームをやっているだと?冗談じゃあない。

俺のプロフィールに飛び、直近のポストをほんの30秒ほどでいいから遡ってみてほしい。最近何のゲームを遊び、それをどれほど楽しんでいるかはすぐにわかる。少なくとも、俺は常日頃からゲームを貶しているわけではない。どちらかといえばその真逆で、俺は基本的にゲームを褒め、称え、薦めている。低評価を下したいくつかのレビューはほんの少し注目されたことがあるだけだし、それは俺のコントロールできる問題でもない。なのに、こいつは、そんな、簡単な、推論すら、しようと、していない!

©LUCKY LAND COMMUNICATIONS

こんな誤解のされ方はまっぴらごめんだ。

やんわりと否定するポストはしておいたが、どうやら伝わっている様子はなさそうだった。きっと向こうしばらく、この人の中で俺は「ゲームを貶すためにいつもゲームをやっている」けしからん連中なのだろう。なんて理解力のないやつ!と怒りそうになってしまったが、この問題はそんな簡単ではないのかもと思い直し、振り上げた腕を下ろしてみた。

問題は、どうしてこんな認知が起こってしまうのか?ということだ。俺を嫌うのは個人の自由なのだけれど、事実を誤認したり歪んだ認知をするのは由々しき問題であり、当の俺自身もしばしばそういった誤解にハマりこんでしまう。ならば、その問題が起こる理由を知ったほうがいい。理由がわかればきっと対策もできるだろう。

というわけで、ここしばらく認知科学の本を読んでいた。

結論:事実は人の意見を変えられない

今回俺が真っ先にたどり着いたのは、『事実はなぜ人の意見を変えられないのか 説得力と影響力の科学』(著:ターリ・シャーロット 訳:上原直子)だった。ある意味当たり前かもしれないが、認知科学に関する本は読者の心理を読むのがうまく、これこそズバリ!というようなタイトルをつけてくれることが多い。この本に答えの一片でもなければさすがに嘘だろう。

本書の「はじめに」では、「数字や統計は真実を明らかにするうえで必要な素晴らしい道具だが、人の信念を変えるには不十分だし、行動を促す力はほぼ皆無と言っていい」と明言される。人の意見を変えようとするとき、データだけでは足りない。たとえそれが、どんなに明らかで正しいものであっても。のっけから不安になる書き出しではあるが、しかしそれがタイトルであり、結論だ。

そのうえで、本書は人の意見がどのような条件に左右されるかを以下の7つに分類している。

  1. 事前の信念

  2. 感情

  3. インセンティブ

  4. 主体性

  5. 好奇心

  6. 心の状態

  7. 他人の状態

事前の信念には抗いがたい

どんな人間であっても、事前の信念、すなわち先入観を持っている。そして複数の情報が提示されたとき、我々は先入観を裏付けてくれるような情報を好み、先入観に反する情報は切り捨てる傾向がある。

これは確証バイアスとも呼ばれ、相反する情報があふれかえった現代において情報が多くなるほど両極化が加速してしまう一因でもある。なにしろ、検索すれば自分の考えを支持してくれるもっともらしいデータをいつでも見つけ出せるのだから。多くの場合、自分の考えと真逆のデータも見つかるはずなのだが、それは都合よく無視される。

現代のインターネットは大なり小なりアルゴリズムが働いているので、確証バイアスはさらに強固になる。たとえば、テレビ番組に映っている「流行りの〇〇」を見て、こんなのTLじゃ全然流行ってないよと一笑に付すことはないだろうか?それはテレビ局がありもしない流行を生み出そうとしているというより(そういう側面が全くないとはいわないが)、あなたのTLにはテレビ局とは違うアルゴリズムで制御された情報が流れているからだ。

アルゴリズムはユーザーのエンゲージメントを高めるため、より「美味しい」ネタを提供しようとする。あなたを肯定し、あなたの感情を煽り、あなたを義憤へと駆り立てる。それが巡り巡って金になる。端的にいって、このプロセスは人を弱くするものだ。

"もしもあなたが自分のことを、推論能力に長けていて数量に関するデータの扱いを得意とする、きわめて分析的な思考の持ち主だと考えているのなら、お気の毒さま。分析能力が高い人の方が、そうでない人よりも情報を積極的に歪めやすいことが判明しているのだ"

『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』p.30より
『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』p.41より

どんな分野であっても、それがたとえ経済的な損得に関わるとしても、人は事前の決断に反し自信を失わせるような情報を軽視する。投資はその性質を示すわかりやすい例だ。人は自分が選んだ銘柄を他人も選んだときは投資額を増やすが、自分が選んだ銘柄を他人が選ばなかったからといって投資額を減らそうとはしないという傾向が実験で明らかになっている。

何かを正しいと信じる強い動機の前では、決定的な反対証拠さえ役に立たない。たとえば、あなたが俺のポストや記事をひとつ見て、それが先入観に反するけしからんものであったと断定した場合。俺が他にまともなこと(昼は明るく夜は暗い程度のまとも加減だ)を言っていたとしても、あなたはその情報を考慮しない可能性が高い。そのほうが、「こいつはけしからんやつだからけしからんことを述べる」という推論にとって好都合になるからだ。

したがって、あるポストが悪い方向にバズった場合、その先入観を越えて良い人格像が思い描かれることはほとんどない。なんとか正そうという試みも無駄に等しい。

一方で本書には「もとの考えを根絶やしにするのが難しいときは、新しい種をまくのが正解なのかもしれない」とある。だとすれば、誤解を解く前に俺がまずすべきなのは「それは違う」と言い張って訂正しようとすることではなく、向こうの考えを変えるに足るような面白いキャラクターに徹することなのかもしれない。

感情に染まり、感情は染まる

先入観に縛られる一方で、人間は感情に簡単に動かされる生き物でもある。

しかしこれは決して欠点ではない。感情には、複数の脳の同期を助長する機能がある。似通った行動や世界観に人を駆り立てることで協力を促し、狂気めいたルナティック計画も実現できるようになるのだ。実際、アメリカの月面着陸は1960年代初めの時点ではまったく信じがたいものだったが、それでもケネディの演説は人々の感情をひとつにし、この夢を現実のものとした。

言い換えると、心の構造は誰しも似たようなものであり、同じ刺激にはたいてい同じ反応を返すようにできているということだ。世の中は十人十色というけれど、それでも感情的または社会的な要素がある課題に対する反応はほぼ似通っている。なにしろ本書によると、「人々の反応の80%は平均的な反応から予測でき、個人差によって説明できるのは約20%にすぎない」というのだから。

また、SNSを使った研究では、ポジティブな投稿を多く見た人はその後ポジティブな内容の投稿をし、ネガティブな投稿を多く見た人はその逆となる傾向がみられた。たとえば俺の抱いた感情はレビューという形式を通じて誰かの感情や意見を変えてしまったのだろうし、その一方で俺の感情や意見には常に誰かの感情が含まれているのだろう。良きにつけ、悪しきにつけ。

『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』p.63より

コントロール不能という恐怖

俺のことを誤解する人に対しては「いいから俺のポストを見ろ!」と命令したくなる。できることなら椅子に縛りつけ、窓のない真っ白な部屋から出られないようにして、俺のポストを見せ続けて反応を伺ってみたい。

けれど、実際には椅子に縛りつけることも真っ白な部屋に閉じ込めることもできない。そして自由を与えられた人間が「やれ」という命令に素直に従うことは稀だ。

人に命令してもうまくいかない理由の一つは、主体性が奪われコントロール不能になることを人は本能的に恐れるという点にある。たとえば恐怖症フォビアの一部は、主体性が剥奪されることに対する恐れで説明がつくという。つまり、雷恐怖症の人が真に恐れているのはいつ稲光が閃き雷鳴が轟くかわからない・・・・・という雷の性質であり、雷に打たれて死ぬことではないのだと。

事実に基づく説明は合理的かもしれないが、主体性が奪われているという感覚を取り除く助けにはなりにくい。現実では雷に打たれる確率より車に跳ねられる確率のほうがよっぽど高いので、雷を恐れるというなら道をまともに歩くことすらままならないはずだ。けれど、そうした事実に基づく説明だけで恐怖症が和らぐなら苦労はしない。

主体性を奪われる恐怖は人を委縮させる。逆にいうと、人になにかをさせたいなら命令で縛ろうとするよりむしろ主体性を与えたほうがうまくいく。「得ようと思ったらまず与えよ」というチャーリー・パーカーゲーテの言葉は、物質的でないものにも通じるようだ。

納税はその最たる例といえる。税金を払うときになんとなく嫌な気分になってしまうのは、金の使い道を選ぶ自由が奪われているように感じるからだ。一方でこれが募金となると、絶滅危惧種の保護とか、ポリオワクチンの接種とか、フリーアクセスできる知識の集積とか、そういった使途に応じて募金先を選べる。ユニセフにするか、UNHCRにするか、ウィキペディアにするか。あるいは、どれも選ばないという選択肢もある。すべてはあなた次第であるという、それこそが肝心なのだ。

税は重くのしかかる

自分の手から金が離れていくのは変わらないわけだが、募金する人が納税する人より晴れやかな顔をしていないとは考えにくい。実際のところはどうあれ、自由意志で選んでいるという感覚や、自己効力感、そういったものが報酬になるからだ。

さて……本書が語る様々な認知の構造から得られる教訓はなんだろう?

俺のことを正しくフレンドリーに理解してほしいと思ったとき、窓のない真っ白な部屋に閉じ込めるのは少なくとも賢い考えではないということだ。

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