歯車たちのマザー・グース(2)──鋭利なマチズモ・『メタルギア・ライジング』について
writer:城輪アズサ
はじめに2:マチズモの位相
前回は小島プロダクションによるゲームソフト『メタルギア・ソリッド2:サンズ・オブ・リバティー』(以下、『MGS2』)の分析を通じて、ゼロ年代において先駆的に提示されていた今日的な状況──トランプ現象をはじめとする諸々のトピックによってしるしづけられる、ポスト・トゥルース的状況──を成り立たせている「情報」のフレームについて見てきた。
それに対し本稿で行うのは、ゲームソフト『メタルギア・ライジング:リベンジェンス』(以下、『MGR』)の分析を通じて、それが描き出した「個」のアクチュアリティ──生臭く身も蓋もない現実の姿──を明らかにし、それを超え出たところにあるとされた「近未来」のマチズモ(マッチョイズム)の位相を探ることである。
2014年にリリースされた本作にとっての近未来とは、いま・ここの現実であるはずだ。だからその主題について検討する作業は、いま・こことの距離を探る作業へと至る。そしてそこにこそ、2010年代(テン年代)という、いまだ曖昧な10年期を批評することの価値はある。
Chapter4:「ソリッドの時代」の終わり、あるいはその周縁によせて
『MGR』はサイボーグ技術の発達した架空の2010年代(テン年代)を舞台に、機械兵器たちの闘争を描き出したアクションRPGである。1987年の『MG』から続くメタルギア・シリーズに連なる一作であり、世界観といくつかのキャラクターを共有している。制作は当時コナミ内部のプロダクションであった「小島プロダクション」のみで予定されていたが、紆余曲折の末に、今日『ベヨネッタ』や『ニーア・オートマタ』などで知られる「プラチナゲームズ」との共同開発というかたちを取ることになる。
メタルギア・シリーズは、個々の作品タイトルロゴ下部の「A HIDEO KOJIMA GAME」という刻印が象徴するように、小島秀夫という一人のクリエイターによって統御された作品群としてパッケージングされ受容されてきたシリーズであるという側面をもつ。無論、ゲームという総体は、美術の新川洋司氏をはじめとする多数のスタッフなくしては成り立たないものだ。しかしそれ以上に、『メタルギア』の作品群は小島秀夫という主体、「監督」という主体が存在しなければ成り立ちえないものとして理解されてきた。
そのありかたはファンダム的な「解釈」やスピンオフが強い力と存在感を持ち、原作者の手を離れて今なお拡大している『機動戦士ガンダム』の「宇宙世紀」とは対照をなしている。『ガンダム』の架空年代記がしばしばファンダムによって担われていたのとは対照的に、メタルギア・シリーズの「正史」はスピンオフの介入を常にはねつけていた。
メタルギア・シリーズが主に展開され高い支持を受けていたゼロ年代においてリリースされたいくつかの作品──『ゴーストバベル』や『アシッド』といった派生的な作品であれ、あるいは『メタルギア・ソリッド:ポータブル・オプス』などといった「A HIDEO KOJIMA GAME」の体系に限りなく接近した作品であれ、「正史」は一貫して、その存在をIPの周縁に位置づけてきた。
無論、それは小島秀夫一人の意向ではなかったろうし、実際、氏は何度となく、シリーズの完全な完結や、自分の手によらないシリーズ継続のかたちを模索してきた。しかし結果として、今日広く知られている「正史」は、全き「A HIDEO KOJIMA GAME」の体系として、宇宙として成立している。
だからこの『MGR』もまた、正史の体系にとっては周縁に位置づけられる。それは「A HIDEO KOJIMA GAME」ではなく、よって「正統な(≒純血の)」メタルギアではない。それはどこまでも属人的な区分であり認識であり、その点において記号表現(シニフィアン)的なものである。小島秀夫という名。「A HIDEO KOJIMA GAME」というラベル。そうした記号の存在において、『メタルギア』は区分され、また同定されてきた。
しかしその区分を、記号内容(シニフィエ)に求めることはできないか。
『MGR』は内容においてもまた、正史的ではない作品だったのではないか。言い換えれば、『MGR』という作品はいくつかの面において、小島秀夫的な思弁の継承(再現)を目的とせず、別様の思弁によって作品を成立させたものだったのではないか。
内容・物語における確信犯的な懸隔。それは他のスピンオフとは存在様式を異にするように思う。そしてその異質さこそ、この作品がもつ特有の主題──「鋭利なマチズモ」──と関係している、と。
鋭利なマチズモ、という主題。変質し洗練されたマチズモ(マッチョイズム)の位相。断言すれば、それは『メタルギア』というフォーマットにおける、『メタルギア』(の内容)からの絶えざる離隔によって生起したものである。ここではそうした仮説から、『MGR』の内容を捉えなおしていく。
Chapter5:「メタルギアが、キレた」
『MGR』がアクションゲームであることは先に触れた。そしてそれは、当然ながら、この作品において最も根本的に『メタルギア』と懸隔している部分である。
『メタルギア』は前回見てきたように「A HIDEO KOJIMA GAME」である以上に「ステルスゲーム(≒タクティカル・エスピオナージュ)」である。超人的な技能を有した潜入者(の役割を負わされた主体)が敵地深くへと潜入する過程。それこそが『メタルギア』シリーズを『メタルギア』たらしめる要素だった。
ジャンルの懸隔・相違は、同時に設計思想の相違でもある。そしてここにおいて、その思想的な相違はゲーム体験そのものを、まったく別のものに変革させることになった。
小島秀夫による『メタルギア』のシステムにおいて、基本的にライフゲージが自動回復するようになっていることは前回見てきた通りだ。そしてそれゆえ、運悪く敵に発見され、発砲され、負傷した場合、プレイヤーに取りうる最善の選択肢は「隠れる」ことだったということも。
それに対して、『MGR』は、基本的に隠れることを最善の選択肢とはしない。ステルス・キルと呼ばれる、完全な潜伏状態において敵を一撃殺できるシステムは存在しているが、それはゲームの基幹に据えられてはいない。そして何より、ライフゲージの扱いの対照性がある。
『MGR』におけるライフゲージは、敵と戦うことでしか回復しない。斬奪。そう呼ばれる、敵サイボーグの心臓部を切除し奪取する過程を経て、プレイヤーはライフを回復させる。逆に言えば、斬奪を行わなかった場合、ライフが回復することはない。
『メタルギア』のシステムが潜伏へとプレイヤーを駆り立てていたのに対し、『MGR』のシステムは戦闘へとプレイヤーを駆り立てる。そしてその相違は、それぞれの「自由度」の相違・位相の別でもある。
ステルスゲームたる『メタルギア』の自由度は、基本的に操作・進行に関わっていた。いかにして隠れるか、いかにして敵の注意を逸らすか、あるいはいかにして「遊ぶ」か。
ひるがえって『MGR』の自由度は、そうした部分には関わっていなかった。それはしばしば多くのアクションゲームが用意してきたような「障壁」を画面内に現出させる。倒せ、倒せ、倒せ。絶えざる闘争のタスクによってその時間は絶対的な基準の下に区切られる。本作が「映画的」と評されることは少ないが、しかしそのありかたは、均一の時間・目的の下に統制されているという点できわめて「映画的」であるといえる(*1)。そこにおいて「自由」は、個々の局面での選択に付加されたものへと変質する。
どの技を使うか。どの武器を使うか。どのようにしてコンボを派生させるか。回避か、防御(シノギ、と呼ばれるそれは厳密には防御そのものではないが)か。どのパラメータを強化し、どのように立ち回るか。そうした個々の──こう言ってよければ記号的な──要素の組み合わせこそが、ここにおいてプレイヤーに許された「自由」となる。それはシナリオとプレイヤーを繋ぐキャラクターをいかにして改造するか、いかにして動作させるか、という意味での自由であり、そこあるのは先に触れたようなかたちの一体性ではなく、独立した、フェティシュ的な快楽である。だから、毎章の終わりに展開される(/するように誘導される)キャラクター強化/ショップ画面がどこかフィギュアの選好を思わせるのは偶然ではない。キャラクターの独立性とその佇まいは、自己完結的なこのゲーム(の提供する体験)の核心であり、多くの要素がそこへと収斂していく。
Chapter6:鋭利なマチズモ
そして前節で見てきたような自己完結性は、物語のレベルにおいて主題と合流する。
主人公:雷電はサイボーグであり、プレイヤーによって選択された武器の強化、装備の変更などの影響を直接的・根源的に被る。ここでプレイヤーの選択は、雷電という存在そのものの変革に関わっている。パラメータが増減するたび、武器に付随する新しい技を覚えるたび、雷電は変容していく。存在そのものが別様のものへと変わる。
ここには奇妙なねじれがある。一般に武器を強化するということは、キャラクター(身体)が強化するということを意味しない。武器の能力は、究極的には個人の能力ではないからだ。身体の延長、とは言うものの、武器と身体の間には明瞭な一線がある。しかしサイボーグである雷電にとって、武器とは身体そのものであり、存在そのものである。身体・存在に対して遠隔する武器、というありかたは、ここにはない。しかし「疎外」は存在する。
武器が身体を疎外するような仕方で、ここにおいて、サイボーグ的身体は主体や意識といったものを疎外する。壮大なものとしての武器の能力(それは同時にサイボーグ的身体の能力でもある)は、主体を矮小なものとして相対化し、ついには消滅せしめてしまう。否、その表現は正しくないだろう。そこで発生しているのは「吸収」である。主体が、意識が、武器の秩序の中に吸収され統合されること。矮小な(ものとして見做された)主体が壮大な武器(=刃物)と接続し、そして大状況としてのシナリオとも接続していく──。
そこにおいて現出するものこそが「鋭利なマチズモ」である。暴力を規定する、新しいかたちの──テン年代における──マチズモ。それは本作のシナリオ(物語)において顕著に表れていた。
では鋭利なマチズモとは一体何なのか。
端的に言えば、それは筋肉を伴わないマチズモということになる。筋肉の原理を拒絶し、刃の鋭さのみを唯一信じられる、たしかな原理とみること。ここにおいて刃は、筋肉がそうであったように実体であることを止め、象徴と化す。しかしそれが外在するものである以上──直截的に身体ではないものである以上──常に実体なるものと無縁ではいられない。欠如の感覚と無縁ではいられない。刃と実存とのそうした関わりの仕方において、実存は絶えず、不動の刃によって攪乱される。逆に、外的現実やその他要因によって攪乱されきった実存が、刃に介入することはできない。そこには非対称性があり、鋭利なマチズモの核心がある。旧来のマチズモが根拠にもつ筋肉と実存の分かちがたさが成り立ちえないその存在様式の不安定さ、危うさをしるしづけるのはこの非対称性だ。
ひるがえって『MGR』における雷電を貫く設定に、先に見てきたような、外在性がもたらす疎外や欠如の感覚はない。しかしそれは鋭利なマチズモを信奉するいま・ここの個人との断絶を意味しない。
『MGR』の雷電は、鋭利なマチズモにとっての寓意だ。マチズモの原理と個人、そうしたすべてを包含し、先鋭化・擬人化した存在として、雷電はある。
Chapter7:物語と喪失
『MGR』の物語において、雷電は様々の「刃物」を用いる敵と戦っていく。否、それは用いる、という言葉がただちに指し示してしまうような、個人と道具の分離を被っている存在ではなかった。刃物としての敵──破滅を呼ぶ風の面々は、先に示した雷電の存在様式同様、全身が刃物そのものであるような存在としてある。
そうした戦いの始点、プロローグは大変示唆的である。ファーストカット。主人公の雷電が、所属する民間警備会社の命によって某国首相を警護する中で、独自の哲学を朗々と語る場面からゲームのムービーは始まる。そこで語られる内容は汎ヒロイズムとも言うべきありふれたものであり、『MGS2』や、キャラクターの一人として登場した『MGS4』──これは発売時期やUIデザインなどが『MGR』と最も近いナンバリングタイトルだ──には表れていなかったものだ。ここには、雷電というキャラクターを、小島秀夫やその他スタッフによって作り上げられた一つの人格・存在を再定義し再配置するという思弁がある。それは、ソリッド・アイと呼ばれる、隻眼の拡張デバイスを雷電が装着していることにも表れている。それは『MGS4』において主人公オールド・スネーク(死に瀕したソリッド・スネークの別名)が装着していたものであり、すべてのスネークの遺伝子提供元たるビッグ・ボス(ネイキッド・スネーク)を彼たらしめる隻眼のイコンを疑似的に再現するための装飾でもあった。
その後、雷電は、先に触れたウィンズ・オブ・デストラクションが一人、サムと相対し、敗北するが、その際、彼は先述したソリッド・アイを砕かれてしまう。ダメージは実際の(サイボーグとしての)目までおよび、以降、彼は片目を封じた状態で戦闘に身を投じていくことになる。
そこには多くの示唆が含まれている。「KOJIMA HIDEO GAME」としての『メタルギア』との峻別、「スネーク」というイコンの否定……。その中でも、「物語」の否定、という側面は、その後のシナリオを規定するという意味でもとりわけ重要であるように思う。
雷電の敗北は、同時に彼の哲学の敗北(否定)でもある。そしてキャラクターにとっての哲学──それを根拠づけるコードの束──とは、物語に他ならない。文脈、背景、そうしたすべてを包含し、複数のスタッフ、複数の演者によって──声優とモーションアクター、キャラクターデザイナーと3Dモデラーはそれぞれ別人である──仮構された「内的確信」なるものの根拠。それは物語の形式をとっている、といえる。哲学を語る雷電の中に、われわれは先に示したようなもの──背景など──を見る。そこで語られる内容が、ゲームシナリオに対する「過去」からもたらされたものだ、という感覚を、われわれは束の間おぼえる。それは本来幻想──ライターの記述しないものは実体として存在しえない──であるはずだが、しかし、今回に限ってはそうではない。
雷電というキャラクターは、十数年続くメタルギア・サーガから生まれ落ちたものだ。そこには確かな文脈が──こう言ってよければ「来歴」が──ある。
無論、来歴はそれ自体、散在する断片にすぎない。雷電が登場した『MGS2』と『MGS4』はそれぞれが別々の物語を、別々の時間において語ったものであり、シームレスな連続性は、表象のレベル、システムのレベルにおいては希薄だ。
それを束としてまとめあげ(=解釈し)提示すること。それは物語を形成する作業そのものだ。ゆえにそこにあるのは、物語であると言うことができる。そしてそれは、プロローグにおいて否定される。
だからその後の雷電の戦い(本編)は、喪われた物語を回復するものである、と言うことができるはずだ。決定的敗北の中に、いかにしてもう一度物語を浮かび上がらせるか。それこそが問題となる。しかしセリフにおいてそれは提示されない。提示されるのは「報復(REVENGEANCE)」という身振り・決断(の連続)だ。それは喪失を闘争によって埋め合わせる過程であると理解することもできるだろうが、これはどことなく、精神分析で言うところの「否認」を思わせる。それは喪失の空洞・欠落からの離隔である、と。
否認は他者との関係において、断絶のかたちを取って立ち現れる。雷電とウィンズ・オブ・デストラクションの戦隊員たちとの会話は、成立しているようでかみ合っていない。それはコミュニケーションでも、論戦でもない──キャラクター自身の、文脈・背景・物語の提示である。しかしそれは「かみ合わないのにぶつからない」、ポスト・トゥルース的状況、エコーチェンバーの発生する場における真実のありかたではない。なにせ、雷電は自身の物語を語らない(/語ることができない)からだ。それは喪われている。
Chapter8:物語の復興と「ナタの時代」の個人
しかしシナリオの中途、ウィンズ・オブ・デストラクションの一人との戦闘において、物語はやや唐突に、過激なかたちで復活することになる。そしてその際に援用されるのもまた、メタルギア・サーガの、散逸した情報の断片だ。
リベリア内戦の少年兵であったという過去。折り合うことのできない、分割も否認も、究極的に果しえないクリティカル・ポイント。『MGS2』において、当時(2002年)社会的問題としてにわかに注目され始めていた「少年兵」の問題と絡めるかたちで提示された、その雷電の過去(の真実)は、ここにおいて、冒頭の哲学がそうであったように読み替えられる。
少年兵としての過去は、『MGS2』において社会問題の告発以上の意味をもつものではなかった。それはある種の背景として、ごろりと、物語の片隅に転がっているのみだった。それは「情報」のフレームを活写する過程において──理念を完成させる過程において、放逐されたコードの連なりだった。
だが『MGR』はそのコードを掬い上げる。「行動原理」というかたちで。
少年兵(=人斬り)としての過去は、雷電にとって瑕疵ではなく「本性」である。『MGR』はそう主張する。それは時代(SCENE)や環境(=フレーム)に押し付けられたものではない。それは洗脳の過程において立ち現れた病質ではない。それは本性なのだ。それはありうべき個人の姿なのだ……。
かくして「告発」はその効力を失い、物語として雷電の実存へ統合される。「少年兵だったからこそ、絶えず戦場という究極的な現実に規定されたからこそ、雷電は強いのだ」という物語へと社会的問題を統合すること。心の傷として──トラウマとして、その過去を、ただ過去のままに留めていた『MGS4』に続く物語を直截的に描き出すこと。『MGR』が選択したその語り口は、ゼロ年代を、『メタルギア』シリーズを、ラディカルに踏破する。「KOJIMA HIDEO GAME」との離隔の裡に。かくして雷電は立ち上がり、ウィンズ・オブ・デストラクションを、因縁の相手であるサムを撃破することができた。
そしてその「物語」は、ここまでに触れてきたような、ゲームプレイにおいて立ち現れる「雷電」というキャラクターの存在様式──自己完結的な凶器としての佇まい──と合流する。
雷電が口にする「義」は、「弱者を救済する」という理想は、実のところ少年兵時代から通底する殺人衝動に根差したパーソナルなものでしかないが、それゆえに「義」が対象とする他者の世界、〈外側〉と繋がっているのだ、という逆説。その自己完結性の極相におけるある種の開放(という幻想)は、究極的に無根拠である。
たしかにそれは物語という根拠をもつ。しかしその物語は、恣意的に編纂され、解釈によって変転した、独立性を持つものである。そこにたしかな根拠は──客観性・他者性は──希薄であり、ここにおいて無根拠性は際立つ。
究極的に無根拠であることを織り込み済みで、ある決断を下すこと。「父」たることを受け入れること。かつて批評家の宇野常寛はその身振りを「決断主義」と呼び、ゼロ年代における外的現実へのコミットメントのかたちとして整理した。しかし雷電というキャラクターを説明するうえでは、そのタームでは不十分である。
さしあたりここでは、ライターの江永泉氏による「ナタ」の比喩を援用したいと思う。それはゼロ年代とテン年代を通貫し、一つのヴィジョンを提示する。
江永泉氏は論考『ナタの時代、あるいはデスゲーム的リアリズム』の中で、ゼロ年代以降の社会を規定する原理として「ナタ」を見出した。「誰も自分を助けてくれないのだからと、逸脱と暴力を辞さずに『全部自分で変えてやろう』とする情念」。その傍らにあるのが「ナタ」であり、その鈍い輝きをたたえた暴力の具現としての物体は、ある種の自己啓発としても機能する一方で、それ自体が自己目的化してしまうような恐ろしさを秘めていると(『ひぐらしのなく頃に』を引きながら)した。
ここで言う「自己啓発」は、閉塞した状況──宇野常寛『ゼロ年代の想像力』から言葉を借りるなら「引きこもり」的状況・態度──を超克するためのツールとしての性格を「ナタ」に見出す思弁である。しかし脱引きこもりの先に待っているのは、宇野が指摘するように「戦わなければ、生き残れない」過酷なバトルロワイヤル的状況──「デスゲーム的リアリズム」である。
「バトルロワイヤル」を「デスゲーム」と読み替える視点は重要であるように思う。ここで言う「状況」とは、限られたパイを奪い合う闘争のことであり、そしてパイは、それを用意する者(あるいは集団、あるいはシステム)がいなければ存在しえない。ここにおいて状況は、ゲーム的な箱庭性を持っている。同論考はその後、サブカルチャーの分析(『魔法少女まどか☆マギカ』など)を通して、デスゲーム(状況)の打破による自由と平和の実現の根源的な不可能性へと接近していくが、ここではそれに立ち入ることはしない。
ここにおいて注目したいのは「ナタ」が分かちがたくもつ、刃物としての存在様式である。先に確認したように、刃物とは外在する暴力(性)だ。そしてそれゆえに「ナタ」は「決断主義」というタームが、絶えず暴力(性)を実存の秩序へと還元してしまう性質を持つがゆえに取り落としてしまっている向きのある、現実の一様相を──この文脈においては雷電というキャラクターの存在様式を──掬い上げる可能性を秘めているように思う。
雷電は無根拠性を根底にもつ、ある種恣意的な物語を強固に保持することによって物語の喪失に抗し、報復(REVENGEANCE)を完遂することができたが、その際、彼が刃物を手放すことはなかった。彼の物語には刃物が必要不可欠だった。外付けの暴力性が。
その外在性は、ここにおいては(上に示したように非対称ではあるけれども)相補性でもあるはずだ。外付けの刃物──不動の「凶器」──が絶えず闘争(心)を規定するように、闘争(心)もまた絶えず刃物を見出し、その効力を一定のクオリティに保ち続けること。そうした関係性がここにはある。そしてそれは、存在そのものがある種の刃物である雷電と、プレイヤーとの関係にも適用することができる。
Chapter9:鋭利なマチズモ/Reprise
江永氏の整理に従うなら、われわれは今なお「ナタの時代」に生きている。不在にして複数の、顔のない管理者(たち)による突発的で冗長なデスゲームの連続の中で、究極的に無根拠な決断を続けざるをえない世界に。
そうした状況において主体は、むき出しの身体は、あまりに脆いと言わざるをえない。そしてその脆さを直視し、逃れ出ようとするとき、そこに立ち現れてくるものこそ「ナタ」であるはずだ。この主体/対象間の距離と、決断の無根拠性を外在する対象物によって埋め合わせる身振りこそが、鋭利なマチズモをしるしづける。筋肉なきマチズモを。外在する刃物(的な象徴)を唯一のコミットメントの手段と見做すマチズモを。
鋭利なマチズモは、雷電の佇まいそのものであり、そしてその雷電をまなざすわれわれが、ゲームプレイに際して輪郭を捉えるものである。それはまた、いま・ここの世界におけるある現実を指し示してもいる。その点で、この概念と、それが顕著に表れた『MGR』はいま・ここに対してアクチュアリティをもつ。
外在する「父」のイコン。トランプ現象において立ち現れたそれは、もはや無効であるはずだ。「強いリーダー」の世紀は終わりつつある。それは同時に古いマチズモの終わりでもあり、そこにあって唯一信じられるのは「ナタ」のみということになる。
だから2021年のアメリカ議会議事堂襲撃事件において、トランプが行った(とされる)のはあくまで「扇動」であった。それは「主導」──強いリーダーとして、父として責任をとる身振り──ではなかった。それは主導にはなりえなかった。だから事件後、トランプは一切の関与を否定したのだし、それでもなお、陰謀論的な、彼と彼にまとわりつく物語に対する信奉が衰えることはなかったのだ。しかし一方で、この事件の存在や諸々の係争によって、トランプそれ自体の力は衰微している側面がある。ここにはイコンから物語(≒ナタ)へという移行がある、と言うことができるだろう。
『MGR』の開発が行われた日本においても、同様の構造は表れている。「強いリーダー」として嘱望されたゼロ年代の堀江貴文(ホリエモン)や、テン年代の橋下徹や安倍晋三(第二次安倍政権)。それらは今や力を失っているし、テン年代末において立ち現れたポピュリズム政党や個人においても同じことである。「父」的なもの──旧来的なマチズモを体現し、ある種の責任を引き受ける主体──は、それぞれがいま・ここにおいて挫折を被っているかにみえる。そしてその挫折は、マチズモの形態の移行が生んだものだったのではないか。旧来のマチズモから、鋭利なマチズモへの移行が。
『MGR』が予兆として示した近未来とはまさにそれであった。終局において雷電の前に立ちふさがるのは、旧来のマチズモを体現するかのような、肥大した筋肉を有するアメリカ合衆国の政治家であった。
アームストロング上院議員。彼の言行はネットミームとして広くいま・ここのネットワークに拡散している。ホリエモンや安倍晋三の言葉たちがそうであったように(*2)。
無論、その言行は原始的というほかはない。だからネットミーム拡散の過程において、それは多くの場合嘲笑の対象となっているはずだ。しかしそこには、ほのかな快楽もまた混じっているはずだ。すなわち、旧来のマチズモを断言する、という身振りに対する快楽が。
それは今日におけるトランプの扱いにも近しいし、事実、本作における最大の敵「メタルギア・エクセルサス」──他のボスに対して明らかに超大な、大資本の塊──を操作するアームストロングの姿は、あるいは戦闘に際して発された言葉は、選挙戦から今日に至る彼の言行に酷似している側面がある。
メタルギアという兵器は、核という「神話」を積載した使徒としての性格を有するものだ。しかし本作において核は一切登場しない。代わりに、そのコックピットにはマチズモを──現実の生臭く身も蓋もない部分を──体現した男が積載されている。どういうことか。
それは彼のマチズモこそが、本作を貫く神話である、ということではないだろうか。絶えずわれわれを規定している、という宿命性を認識するところからしか、すべてを始めることができないものとしての核の神話。それに代わるものとして、アームストロングのマチズモはあったのではないか。
そしてそれと相対し、解体するのはここまでに示してきたような鋭利なマチズモ──決して刃物を下ろすことのなかった雷電のマチズモだ。刃によって、無根拠なことを織り込み済みでそれを振るうことによって、その行為を肯定することによって、神話は解体される。それは同時に、鋭利なマチズモが完成することでもある。解体は再興の呼び水である。
だから死の際で、アームストロングはこう口にした「お前は俺だ」。それはマチズモの輪郭をそのままに、意味内容を反転させて行われる継承だった。太陽を背負い決然とした表情を浮かべる雷電は、もはや物語を喪失した主体ではない。根拠の所在を、「情報」のフレームに分かちがたく規定された世界をいかにして受け止めるか、ということを、思い悩んでいた一人の青年ではない(事実、本作の雷電はこれまでの作品よりずっと「老けて」いるように見える)。それはナタの時代に過剰適応した──こう言ってよければ神話的な──存在である。そしてわれわれは彼を操作することができる。物語の次元において鋭利なマチズモを体現する雷電は、ゲームプレイの次元において一つの刃物となる。画面のこちら側のわれわれが持ちうる、鋭利なマチズモを補強する刃物に。
マチズモの自己完結性と無根拠性は、ある意味では残酷で無軌道な外的現実から自己を保護し、コミットメントの契機を与える役割をもつ。しかしそれは、自己目的的な暴力性をしばしば伴うものであり、その表出として諸々の事件が存在する。「ナタ」を過剰に信奉し、その原理を過剰に信じ込んでしまった(/信じ込まざるをえなかった)ひとびとによる事件が。
事件数自体は、犯罪学者の岡邊健が指摘するように、増加してはいない(*3)。しかし「傾向」は、社会不安は、歴然といま・ここに存在する。そしてそれは、積極的排除の論理(=「ナタ」の論理)を見出し、いまなお肥大させ続けているかにみえる。「個」の集積としての、「父」のイコンを究極的に必要としない、「群」の暴力が、いま・ここの文化空間には横溢している。
では、どうすればいいのか。
Chapter10:老いた太陽でも、煉獄でもなく
「ナタの時代」を透徹した目線で描き出した江永氏は、同論考の中で「来るべき時代に合わせたなるべき何者かのモデルを描出する力ではなく、各々が各々の道を辿りなおして、別物になることができると伝える力」に未来を、可能性を託している。
「別物」。その語用には「何者か」という言葉を解体する可能性がはらまれている。「何者か」という言葉は、個人が絶えず言葉に、「キャラ」の原理に還元されもするいま・ここにおいて、絶えずわれわれを抑圧している認識の一端を指し示しているように思う。そしてその抑圧から抜け出るためには──それは同時に、鋭利なマチズモの重力圏から抜け出ることでもある──、どこかで、個人なるもの、この「わたし」なるものを別物へと変じなければならない。
『MGR』のラストシークエンスにおいて、雷電の鋭利なマチズモによって救われた少年ジョージに対し、『MGS4』において雷電から救われた存在であることが明かされる少女──時代(SCENE)に、「情報」のフレーム(=『MGS2』の構造)に、そして何より『メタルギア』の物語に翻弄されてきた少女、サニーはこう言う。
少年兵としての過去を「物語」として読み替えることで、雷電は何のためらいもなく刃物を握ることができた。恣意的に編纂され、解釈によって変転した、独立性を持つ、究極的に無根拠なものとしての「物語」──。サニーの言葉は、そこに逃走線を引く。しかしそこで提示されるのもまた、断片を編纂することで生成される「物語」である。それはアームストロングとの戦いにおいて雷電が獲得したものと同根であるという側面をもつ。エンディングの直前にあって仄かに見えた希望は、外的現実の困難さ、絶えずわれわれを規定する「物語」の過重の前に力なく頽れるしかないのだろうか。
ゴットシャルが指摘したように、物語に〈外側〉はない。とりわけ、あるコンテンツ、あるIPにおいては、究極的なエンドマークの刻印は許されない。IPは無意識のうちに永続が望まれるものであり、キャラクターはその重力圏のうちに幽閉される。脱出口は自壊しかない。そして自壊は、常に悲劇を付随する。
しかし幽閉が宿命であるならば、キャラクターは──そしてわれわれは──そこからすべてを始めなければならないのではないか。外側が想定できないのならば、幽閉を享受し、その受苦のうちに、物語の受苦のうちに、一筋の希望を見るしかないのではないか。
メタルギア・シリーズは、小島プロダクションの解体と再構成(現在は「コジマプロダクション」としてKONAMIから独立している)の過程の中で、ほとんど自壊するようなかたちでその幕を下ろした。進行していたという実写映画の話は立ち消え、最終作たる『MGSV:THE PHANTOM PAIN』は未完成のまま──第二章の最後のチャプターを語ることがないまま──今に至る。それがもたらした悲劇と報復心は、コジマプロダクションを挟まないままに制作された『メタルギア・サヴァイブ』(2018)を焼き払った。「一つの旅は煉獄に終わる」(*4)。終わりは終わりのまま、今なおそこに佇み続けている。
自壊は究極的な終わりでもなければ、物語の裡に留まり続けることを許すものでもない。しかし必要なのは、いまなお、究極的な終わりか、あるいは物語の受苦である。
後者の可能性はいま、われわれの前に開かれている。KONAMIから発表された「マスターコレクション」──現行ゲームハードに『メタルギア』シリーズの作品を復刻するプロジェクト──と、『MGS3』のリメイク『メタルギア・ソリッドΔ』(現在開発中であるとされる)の存在は、一度閉じたメタルギア・サーガ再構成の可能性を示唆している。
雷電の物語が、いつの日か再び語られるのだとすれば──その時、鋭利なマチズモは、旧来のマチズモがそうであったように解体、ないしは再構成されるのかもしれない。それはナタの時代の終わりに付随するのか、ナタの時代を終わらせるだけの力を持ちうるのか、あるいは時代(SCENE)の過重の前に破綻するのか、それは定かではない。
しかし未来へ希望を仮託するというのは、『メタルギア』が常に行ってきたことでもある。ソリッド・スネークの物語──「現代」のスネークの物語──は常に、未来を志向することで幕を閉じていた。
僕もまた、その志向によってこの論考の幕を下ろしたいと思う。
結びにかえて、メタルギア・シリーズを象徴するフレーズを引用する。それは崩壊した『メタルギア』への鎮魂、そして来る『メタルギア』とわれわれの未来への祈りにもなりえるはずだ。
注釈一覧
*1:付け加えれば、カメラ操作の自由度の低さ(ターゲッティング以外でのカメラ操作が著しく困難)もまた、そうした性質を強化しているといえる。
*2:なお、アームストロングは言動からして生粋のアメリカ人であるはずだが、その容姿は日本の政治家や実業家にきわめて近い。その点において、本作は日本社会を想起せずにはおかない作品である)
*3:岡邊健「ゼロ年代以降の殺人を犯罪学から読み解く──統計が示す反直感的ファクト」(中央公論新社『中央公論2022年12月号 特集・隣にいる殺人者』所収、2022)
*4:『メタルギア・サヴァイブ』冒頭のモノローグ。本作は、小島プロダクションを思わせるような、国家を超えた軍事的共同体「国境なき軍隊」(MSF)が、『MGSV:グラウンド・ゼロズ』の事件によって壊滅した後の、埋葬の風景から物語を始める。しかし以降、彼らの属していた「天国」(の片隅)の予兆が現れることはない。物語は全き「地獄」において進行する。
参考文献
伊藤計劃「制御された現実とは何か」(ハヤカワ文庫JA『伊藤計劃記録1』所収、2015)
伊藤計劃「神亡き時代の神」(ハヤカワ文庫JA『伊藤計劃記録2』所収、2015)
宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2009)
宇野常寛『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎、2011)
江永泉「ナタの時代、あるいはデスゲーム的リアリズム」(早川書房『S-Fマガジン2022年2月号 特集・未来の文芸』所収、2022)
ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』(原題:《THE STORY PARADOX》 東洋経済新報社、2022)