フランツ・カフカを摂取した日の追憶
フランツ・カフカの言葉が好きだ。
放つ言葉のすべてが僕の意見であると言ってもいい。
それは言い過ぎだ。それだと微塵の相違点が積もって自分ではなくなってしまいそうで怖い。
今まで僕は、自分の気持ちや考えは全部間違っていて、こんな考え方はすべきでない、今すぐにでも改めるべきだ。と自分を叱り続けていた。しかし、かの「変身」や「訴訟」を書くカフカが僕と同じようにことを考えたり見たりして生きていて、こうやって今も有名(ここで私は有名という単語を未だかつてないくらい故意的に使った。名が広く知れ渡っているというだけの突発的な形容の意味ではなく、無名ではなく、名が有る、という非常に強い意味を意識せざるを得なかった。)であれることを考えると自分もそのままの考えのままでもいいのか、それを正直に表現してもいいのかと一瞬だけでも自分を肯定することができた。その瞬間、僕はとても大きな安心感で包まれた。嘘で塗り固め、自分にも嘘をつき続けた自分に霧吹きで水をかけて少しでもその嘘を洗い流し始められた気がした。嘘を知ってから夥しい数の嘘をついてきた身としてはこれはベルリンの壁の崩壊を彷彿させるほどの大事件だ。
カフカはあまりにも繊細で、優しいがもろく、自分に厳しすぎる。人が持ちうるすべての優しさを全て他人に注ぎ続けている。その多すぎる優しさのかけらを頭から被ったような衝撃と喜びは形容し難いものだ。
ただ1つ言えることは、この気持ちを誰にもあげたくないということだ。
当然だ。安売りしてたまるものか。
でもきっと、僕のことだ。悲しそうな人がいたらすぐに教えちゃうんだろう。
それで、その人は僕よりもはやく悲しみから脱却して、僕が教えたってこともカフカの言葉も何もかも忘れるんだろう。僕が1人で大事にしていた気持ちは、可哀想に外に投げ出されて、身包み剥がされ、通りに放置されるんだ。通行人には蹴られ、追いやられ、白い目で見られ、忌まわしそうに避けられるんだ。
僕は一度落としたものをもう1度ポケットに入れる気になれなくて、そのままなにも知らない通行人と同じように見て見ぬ振りをしてしまいそうだ。
それは、それだけは何よりも恐ろしくて悲しい。
そんなことにだけはなりたくない。僕は弱虫で、(いっそ虫にでもなってしまえばいいのだが、なれるわけでもなく)悲しいままで生きている。
(ここで何故か手を止め、シャワーを浴びたことを心底後悔している。というのもこの続きになにを書きたかったのか今となっては全くわからないのである。)