「日食」、「土用」、「月食」に従って生きる
昨日、ずっとあたためていた、あたらしいスタートになる記事を投稿した。
コロナで取材撮影の仕事がなくなってから3年。
子どもと一緒にずっと過ごす日々が続くなか、一人時間の確保のために、対話の相手として出会ったカード、
朝散歩で谷戸を歩くなかで湧いてきた、自然の一部でいたいという衝動に導かれて出会い、PCCJが初めてオンラインコースを開催してくれたことでつながることができたパーマカルチャー、
「何かできることをしたい」ともがくなかで、まずは自分のサスティナビリティの大切さに向かい合うことになって辿り着いた成人発達理論経由でのコーチング、
と、いろんなことを学ぶ機会を得た。
まとまった金額を用立てて、腹を括って取り組んだり、オンラインで同じ仲間と一緒に学んで語り合ったり、
母親でも職業名でもない、ひとりの人間として人とつながったのは、学生時代ぶり、だったかもしれない。
とはいえ学んでも、「何かできそうだ」という気持ちが膨れるばかりで、現実としてすぐ価値提供できる何かが自分のものになっているわけではない。
どの学びも、始めたときは「終わる頃には何かが変わる」と期待し、実際終わってみると「そのスタートラインを切った」にすぎないんだな、というのを繰り返していた。
それは期待ハズレだった、という意味とは違う。
カードを入口にした古代哲学への学びは、3年でやっと薄く広く全体像が掴めてきて、どこを深めていけそうかあたりがついてきた。
パーマカルチャーは、ほぼ同時期に実践の場として畑サークルに所属し、寛大な先輩方に見守られながら、パーマカルチャー的な実験をさせてもらっている。
昨年、パーマカルチャーな世界観から出会ったGreenz.jpのGCCに所属して、記事を書けるようになったのも、この学びが起点にある。
コーチングは、カードと同時に習慣化していたマインドフルネスとのつながりもあって、MBCCで学んだ。
卒業後も学んだ仲間との交換コーチングで実践を重ねるなかで今回のワークの練習相手になってもらったり、写真のメンティーとなってくれた方との対話に活かしながら、
6月から師と定めた方の元で、こちらは成人発達理論の学びの場でつながったグループで、あらたなトレーニングを受けることが決まっている。
何もかもまだ、個人的な学びの根を伸ばす段階か、春風がやっと吹いてきた、やっと芽を出して双葉を起こそうとしている、そんな段階だと思う。
冒頭の記事は、わたしがこの3年で経験したような、「変容の季節」にいる誰かに向けて書いたものなんだけど、
ふりかえると、記事にも書いたように「変容の季節」は、3年でも終わっていない、年単位の長い旅だ。
虫にたとえるなら、ともかく皮を脱ぎ、そのあたらしい皮膚をやっと風にさらしはじめたところだろう。
脱皮した虫の翅が乾くのは、見ていなければあっという間だけど、虫の気持ちでじっとみていると、長すぎてとても見ていられない。
人間の人生に置き換えるなら、これも数ヶ月、あるいは年単位になるのだろうか。
というわけで変容の季節はまだ続くけれど、昨日投稿した記事は、それを社会につなげる起点となる一歩。
学びは続くなかでも、3年間じっくり自分との対話を重ね、積み上げたものが価値提供できる程度には満ちたと、一歩を踏み出した感じだ。
だからここから先は、しばらく自分を見つめるのを、少し休んでみようと思っている。
その方が、余計なことをせずに、キリッと翅が乾くように感じるのだ。
昨日の記事は、リズムに乗っかるために新月に投稿した。
だから次の満月まで、毎日投稿をおやすみして、代わりにこれからはじめる自分の外側の「コト」を考え、具体的な行動のために言葉に使う。
ちょうど、春の土用(4/17〜5/5)とも重なるし、変容の季節的にも重なる。
なんなら、体の月のリズムも便乗している。
ちなみに、昨日は新月で日食があったけど、次の満月は月食があるそう。
ここまで、天と土、間にある体のリズムが重なることって滅多にない。
ここからの半月はいつもと違う、ちょっと特別な時間になりそうだ。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。