障がい者を知ること、そこから始まる。
一昨日パラリンピックが閉幕した。
私がパラリンピックの閉会式を生中継で見たのは今回が初めてだ。おそらく試合自体も今まで生中継で見ることはなく、翌日のニュースを見て知ることが多かった気がする。
オリパラ開催への賛否の声が直前まで上がっていたが、自国開催だったからこそ、こうして見る機会に恵まれたのだと思う。
閉会式を見て驚いたことに、世界人口の15%は何かしらの障害を背負って生きているらしい。そんなに障がい者は多いのか。
自分にとって、障がい者の方をどう見ていいか、どう接したらいいのかわからないというのが本音だった。
私が日頃よく見るのは、白杖を使って点字ブロックを触る視覚障害者の人だ。
この街に住んでいるのか、特定の一人ではなく何人か見たことがある。
最寄り駅のホームで人ごみの中、白杖で点字ブロックを触り、エスカレーターを降りようとしている姿。信号を渡ろうとする姿。
人にぶつかってるよ・・・声かけたほうがいいのかな。
あ。行っちゃった。
今日も声をかけられなかった。
自分が優しい人間でいたいと思う。
それでいて、障がい者の方を見ると見なかったことにしたいと思うのも本音だった。気づかなかったことにして、早歩きに通り過ぎようとする自分もいた。
なんて冷たいやつなんだと思う。全然優しい人じゃない。
生まれながらにして何かしらの障害を持っている人、生まれた後に生活していく中で不慮の事故やときには原因不明で障害を抱えてしまう人もいる。
自分にだって、身近な家族や友人にだっていつ障害を抱えてしまうかわからない。だから、いつ何かが起こるかわからない、自分にだって起こりうるから、障がい者に優しくして、人を助けたほうがいいんだ、と思っていた。自分だったら困ってるときは助けてもらいたいでしょ、と。
でも最近思うのは、そういうことじゃないんだと思う。
自分に置き換えなくても、身近に障がい者がいなくても、他人に優しくできる人間でありたいと思う。
自分に置き換えないと助けられないことこそ、冷たい奴ではないのか。
最近こんな記事を発見した。奈良 里紗さんの記事である。
ネタばれになってしまうが、視覚障害者の方が困っていなければ助けないほうがその人にとってはありがたいのだ。
衝撃的だった。
優しい人でありたい、ああ今日も自分は冷たい奴だった、と自己嫌悪に陥っていたが、そもそもが違ったのだ。
障がい者だからと言って常時困っているとは限らない。
もちろん、相手が困っているときや、相手は気づいていないが危険が迫っているときなどが助けないといけない。
多分必要なのは、相手のことを知ること。
知らないと、どうしていいのかわからない。
相手のことを知っていたなら、見ないふりなどせずに、気づかなかったことにせずに普通に見れる気がする。
私は奈良 里紗さんのnoteに出会えたことに感謝したい。
冷たい自分を嫌な奴だと思う。
また今日も、と思うことはこれからもあるだろう。
油断するとすぐに私は嫌な奴になる。
優しい人になりたいのなら、世界に温かさを求めるなら、まず自分が行動できる人でありたい。
私は「知る」ことから始める。