『真(チェンジ!!)ゲッターロボ 地球最後の日』 : 挫折した、今川泰宏版「ゲッターロボ」
作品評:『真(チェンジ!!)ゲッターロボ 地球最後の日』(1998年・OVA 全13話)
「OVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)」として製作された本作は、言うなれば「いわく付きの作品」である。
当初、シリーズ全体の監督を務めるはずだった今川泰宏が、第3話まで制作した段階で降板させられ、スタッフロールからもその名前が削除され、以降は別の監督が、今川の敷いた基本設定を引き継ぐかたちで、残りの物語を展開し完結させた作品、らしいからである。
「らしい」というのは、制作スタッフとして公式には名前の挙がっていない今川泰宏が、じつは当初この作品の監督であったこと、そして何らかの理由で降板となったことについては、公式には何もアナウンスされてはいないからである。
しかしまたそれは、「公然の秘密」である『事実』だと、そう言われてもいるのだ。
このように書くと、「今川泰宏監督の降板」というのは「憶測に過ぎないのではないか?」と感じる方もおられるだろう。
だが、今川監督の代表作ともなっている、こちらも「OVA」で制作された『ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日』の第1話と、本作『真(チェンジ!!)ゲッターロボ 地球最期の日』(以下、永井豪・石川賢のマンガ『真ゲッターロボ』と区別して、『OVA真ゲッターロボ』と略記する)の第1話を見比べていただければ、アニメファンではなくても、その「画面作り」や「ナレーション」や「世界設定」や「サブタイトル」等々が、ほぼ「そっくりそのまま」だという事実を、容易にご理解いただけるはずだ。
つまり、『OVA真ゲッターロボ』の第1話を見せておいて、「今川監督とは一切関係ありません」などと責任を持って断言できる制作関係者などいないはずで、万が一、事実として今川監督が関与せずにこの「第1話」を作ったのだとしたら、これはもう完全に「盗作」問題、あるいは「パクリ」問題になってしまうからである。
それに、アニメ界では、昔から「名前を出さない制作協力」や「変名での協力」といったことは、よく行われてきたので、当人さえ納得しておれば、関係者の名前を隠すことに対する敷居は、意外に低いのである。
引っかかるのは、作品上の「あからさまな共通点(相似)」ばかりではない。
そもそも、この作品のタイトルにしてから、その「読み」が統一されてはいないというのも、小さなことのようだが、気にかかる。
実際のタイトル映像は、大きい「真」という字の後に横書きで「ゲッターロボ」と続き、これは「真ゲッターロボ」と読むことができるのだが、大文字の「真」の左横、「ゲッターロボ」の上に「チェンジ!!」の文字が入っている。
「ゲッターロボ」の下に小さく書かれた「地球最後の日」は、明らかにサブタイトルとわかるから良いのだが、「真」と「ゲッターロボ」と「チェンジ!!」を、どの順に読むのが正式なのかが、不分明なのだ。
事実、Wikipediaでは本作を、単に『真ゲッターロボ 世界最後の日』と表記している。要は、「チェンジ!!」は、「飾り」みたいなもので、タイトルの内には含まないという解釈だろう。
ところが、同作のスポンサー会社であるバンダイビジュアルは『真(チェンジ!!)ゲッターロボ 世界最後の日』という表記を選択しているようだ。また、バンダイ関係の中でも()内の「!」マークを、半角2文字の「!!」とするか、全角2文字の「!!」にするのか、その統一もなされていないようだ。
さらに言えば、タイトル映像そのものからすれば、本作のタイトルを『チェンジ!! 真ゲッターロボ 世界最後の日』等と「チェンジ!!(または「!!」)」を「真ゲッターロボ」の前に置いても、決して不自然な読みにはならないだろう。
私が本稿のタイトルに『真(チェンジ!!)ゲッターロボ 地球最後の日』を採用したのは、「チェンジ!!」を入れておいた方が検索にも引っかかりやすかろうと考えたのと、製作会社の表記を尊重したからである。
ともあれ、昔のテレビシリーズやその劇場版オリジナル作品とは別の、新解釈で作られた「ゲッターロボ」としては最初の作品となる本作は、大きな期待を寄せられながらも、結局は中途半端な作品となってしまった。
またそれでも、今となっては「OVA15周年記念作品の名作」などという煽り文句がつけられて、サブスクで公開されてもいるのだが、そもそも「名作」と呼ぶのであれば、「正式名称」くらいハッキリさせておくべきなのではないのか?
だがまた、そんな「金儲け」とは関係のない部分で、この作品に詳しく触れたくないということなのであらうか、前記のどおり、本作のタイトルは、曖昧なままに放置されているのである。
私が思うに、これはたぶん、本作のタイトルが「本来」何であったのかということを語れるのは、今川泰宏監督以外にはいない、からではないだろうか。
しかし、OVA第1巻発売の段階で、すでにスタッフロールからその名の削除されていた今川に「正式なタイトルは、何なのでしょうか?」と尋ねるわけにもいかないし、かといって他の者が、自分が決めたものでもないタイトルについて、勝手に「あれは、こうです」などとは言いにくいので、結局は、商売的には大した問題にはならないことなのだから「触らぬ神に祟りなし」ということで、タイトル問題を放置したままにしてしまった、ということなのではないだろうか。
そんなわけで、本稿の趣旨は、本作『OVA真ゲッターロボ』が「本来、どのような構想を持った作品だったのか」を「考察」するようなもの、ではない。
そういう(死児の齢を数えるような)ことは、ゲッターロボファン、原作関係者ファン、あるいはアニメオタクの皆さんにおまかせして、ここでは、どうして本作が「こんな悲惨な末路を辿らなければならなかったのか」、そんな悲劇を生んだ「業界事情」について、可能な範囲で考えてみたいのである。
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まず、議論の大前提として、『OVA真ゲッターロボ』は、第3話までは今川泰宏監督が作った、と考える。
と、こう書いたとおりで、要は本作の3話までは今川作品であり、他の人による『ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日』の「露骨なパクリ作品」などではない、という前提で議論を進めたいということである。
したがって、少なくとも第3話までは、今川泰宏監督が作ったものであり、ということは、本作『OVA真ゲッターロボ』のタイトルは無論、基本設定や大まかなシリーズ構成、さらに第1話の絵コンテも、今川が担当したものと見て良いだろう。
第1話のスタッフロールでは、絵コンテは「矢野博之」となっているが、これはスポンサー側からの意向を受けて、今川監督の名前を全削除したために、矢野の了解を得た上で、差し替えられた、「名義貸し」だと考えるべきであろう。
無論、矢野としても、不本意な苦渋の選択だったのではないかと推測される。というのも、この第1話の絵コンテを矢野が切ったとするのであれば、それは矢野が「今川演出を丸パクリした」ということにしかならないからである。
しかし「見る人が見れば、今川さんの絵コンテだというのは明白で、あなたが好きで名義を提供したのではないという裏事情も、業界内は無論、アニメファンだって察してくれるよ」と、そういうことだったのではないだろうか(だからこそ、情報はリークされもした)。
実際、第3話までは、今川泰宏監督が担当したというのは「公然の秘密」になっており、要は「人の口に戸は建てられない」ということである。
したがって、「今川が3話で降ろされた」というのは、アニメ業界内では「常識」に類する話なのだろうし、そうであれば、そうした話は、いずれマニア筋にも伝わってしまうだろう。
私が、この「公然の秘密」という話を最初に目にしたのは、本作の「Blu-ray BOX」に関するAmazonカスタマーレビュアー「CALL ME SNAKE!!」氏のレビュー「今川原理主義と笑われるか」であった。
同氏は「公然の事実」と書かれているが、それほどの「事実」だったということである。
これと同様の評価には、次のようなものもある。
こちらは、同作の「リマスターDVD BOX」についてのもので、カスタマーレビュアー「ゲッター好き」氏のレビュー「ゲッターに興味があるならば是非見てほしい。」である。
「ゲッター好き」氏は、今川監督の後を継いで苦労したであろう川越監督をフォローしておられるが、「CALL ME SNAKE!!」氏ほか、多くのレビュアーが指摘しているように、本作は、せいぜい第3話までと最終回の作品だと評価して良いだろう。
なぜ「せいぜい第3話まで」なのか、この点の説明は後でするが、ひとまず、「今川監督が3話までで降ろされた」というのが「公然の秘密」だからこそ、「note」でも次のような「考察」記事(あるいは、そのためのメモ)がなされていると考えるべきだろう。
ゲッターファンの間では、「今川降板説」は、もはや単なる「一説」でもなければ、「可能性」でもなく、「公然の秘密」としての「事実」として語られるものであり、私自身の目にも明らかな、「事実」なのだ。
したがって、繰り返しになるが、私が本稿で問題としたいのは、「なぜ、今川監督は降板させられたのか?」ということである。
無論、みずから進んで降板したのではないだろうことは、「ゲッターロボ」という題材は、「ジャイアントロボ」や「マジンガーZ」「鉄人28号」などと同様、今川監督がやりたがりそうな「昔懐かしい(自分が子供の頃に熱狂した)ロボットアニメ」だからで、これは庵野秀明監督が「ゴジラ」や「ウルトラマン」や「仮面ライダー」をやりたがったのであろうというのと、同様の話である。
したがって、今川監督の場合も、この『OVA真ゲッターロボ』を、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』の時のように、比較的「好きに作らせてもらえたのであれば」降板することはなかっただろう、ということである。
言い換えれば、降板となったのは、「好きに作らせてもらえなかった」ため、やむを得ず降板したのか、あるいは、お前には任せられないと首を切られたか、そのどちらかしか考えられないのである。
では、どんな理由で「好きにやらせてもらえなかった」のかというと、真っ先に考えられるのは「予算とクオリティ」の問題である。
本作「Blu-ray BOX」版のAmazonカスタマーレビュアーである「ゲッター者」氏は、そのレビュー「風呂敷が畳めていないが、価値はある!」(5つ星のうち3.0)で、次のように書いている。
問題は、もちろん『降板理由は3話までて予算を使い切っただとか諸説ありますが、はっきりとは不明です。』の部分。
それこそ、もちろん、正式なアナウンスが一切なされていないのだし、仮にそれがなされたところで、それが「真相」だという保証はどこにもない。ましてや、関係者の「立場」に由来する見方によって、「今川監督降板」の理由も、いろいろあって当然だろう。
だが、たしかに言えるのは、本作『OVA真ゲッターロボ』が、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』に続いて制作された作品だという事実である(共通するメインスタッフも多い)。つまり、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』での実績を買われて、今川監督は起用されたのだろうが、その時とは「制作環境(条件)」が大きく違っていた、といったことなのではないだろうか。
『ジャイアントロボ THE ANIMATION』の場合は『1992年から1998年まで、5年半にわたり全7話』(Wiki)が制作され、随時各巻(一話一巻)が「OVA」として発売された。だから、次の巻が発売されるまで1年以上開くことも、平気であった。
言い換えれば『ジャイアントロボ THE ANIMATION』は、このようにのんびりとした「恵まれた制作環境」の下で最後まで作らせてもらえた、その意味でも稀有な作品だったのだが、『真ゲッターロボ』の場合は、そうはいかなかった、ということではないだろうか。
『ジャイアントロボ THE ANIMATION』の場合ですら、本来の構想からすれば、もっと長い作品にも出来たはずなのだが、こんなペースでは「全7巻」で完結させるのが限度だったのであろうことは、容易に推察できる。
「今川監督の大風呂敷」をぜんぶ畳もうと思えば、10年どころか、20年以上かかる可能性だって、否定できないのだが、そのビデオなり何なりを販売するつもりで資金提供している側としては、年に1巻出るか出ないかわからないような、とうてい継続的に安定した「儲け」が見込めないような作品に、そんなに長期にわたって投資することなどできない相談だろう。出資を決める側の担当者だって、変わってしまうはずだ。
したがって、『OVA真ゲッターロボ』での「今川監督の降板理由」というのは、常識的に考えれば「予算とクオリティ」問題であり、「ゲッター者」氏も紹介している『3話までて予算を使い切った』説が有力であろうと、私は考える。
というのも、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』の場合は、最初から「シリーズとして作ると決定していたわけではない」と思える節があるからである。
つまり、ひとまず「第1話」を 「パイロットフィルム」的に制作して、その評判が良ければ、続けて作っていこうというかたちだったのではないかという匂いがプンプンするからで、それほど『ジャイアントロボ THE ANIMATION』第1話の出来は、誰もが認めるとおり、飛び抜けて素晴らしかった。
そして、この第1話が好評で「この調子でお願いします」というかたちで制作が続いてとすれば、「予算」はどういうかたちになっただろうか、ということである。
当然、第1話は「パイロットフィルム」を兼ねているので、通常の1話分よりも潤沢な資金が投入されている。「この予算で作ってみてください」と、余裕のある予算が提示されたことであろう。それで完成した作品に客が食いつけば、後の巻も売れるのだから、第1巻は特に丁寧に作られるのだ。
第1巻の好評を受けて、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』の第2巻を作ろうとした今川監督は、「第1巻と同程度のクオリティで、第2巻を作ろうとすれば、当然、同程度の予算と時間が必要だ」と考えるし、そのつもりで第2巻を作るだろう。そして、第2巻(単品)用に与えられていた予算を使い切るつもりで作るし、それで足りなくなりそうであれば、途中で辞めるわけにはいかないから、追加予算を要求し、その結果、作品のクオリティは保たれて評判も良く、またスポンサーの側にもそれに応じるだけの「理解」があったのだろう。だからこそ『1992年から1998年まで、5年半にわたり全7話』なんて「贅沢なこと」もできたのである。
しかし、その結果としての「出来上がった作品」だけを見て、「では、次のゲッターロボも、今川監督に任せよう」となった場合、その際は、最初から十数話を作る予定で、今川監督を中心にして、シリーズとしての構想が練られたのではないだろうか。
つまり『ジャイアントロボ THE ANIMATION』のように、各巻ごとに予算を立てて、様子を見ながら「作っては出し」というのではなく、「ワンシリーズまとめての発注」だったのではないか。当然、予算も「ワンシリーズまとめての総額予算」だったのではないだろうか。
だが、そうなると、『新ゲッター』の「1話あたりの予算」が、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』よりも少なくなるというのは、容易に推察できるところだろう。
そもそも「二匹目のドジョウ」を狙ったにも等しい「手堅い」企画なのであれば、「当たり前の予算」さえつけておけばそれで良い、というのが、当たり前のスポンサーの考えではなかったろうか。
しかし、今川監督にしてみれば、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』を評価されて「あんな作品を」と求められたのであれば、当然のことながら「同じように手をかけて作った」としても何の不思議もないことだし、まして「今度は、全体の構想を実現できそうだぞ」と、そう思っていたかもしれない。だから、最低でも「全13話」くらいの構想は立て、その上で『ジャイアントロボ THE ANIMATION』の時と同じような調子で作った結果、第1話を作った段階で、すでに「予算が、まったく足りない」ということになったのではないだろうか。
なぜ「第3話まで作った段階で」ではなく、「第1話を作った段階で」なのかと言えば、それは「第1話」に比べると、「第2話」「第3話」は、同じ今川監督が作ったはずなのに、露骨にクオリティの落ちている「部分」が散見され、なおかつそれは、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』における「第1話とそれ以降の落差」などとは比較にならないほど、露骨のものだったからだ。
「第1話」に比べて「第2話」「第3話」のどこが、露骨にクオリティが落ちているのか?
それは「作画」面である。「第1話」並の素晴らしい作画部分と、明らかに見劣りする部分の両方が、「第2話」「第3話」には、併存するのだ。
そして、「第1話」並の素晴らしい作画部分というのは、要は「オリジナルのゲッターチームの3人または4人(流竜馬・神隼人・車弁慶・巴武蔵)らを描いた部分」であり、明らかに見劣りする部分とは「真ゲッターチームの3人(號・渓・凱)他の新キャラクターらを描いた部分」である(と言っても、第3話までに登場するのは、あとの3人の中では、號だけなのだが)。
つまり、メカ(ロボット)も含めて、昔懐かしい、愛着のある部分の作画には「力が入っている」のだが、そうした愛着が薄いであろう新キャラその他の部分の作画には、さほどの力が入っていない。
これはどういうことかと言えば、無論、すでに第2話の段階で「予算配分の問題」が生じていた、ということである。
だからこそ、今川監督は、愛着のある部分に優れた原画家を使い、作画監督の手を借りたが、それ以外のところは、やむなく「流した」、ということなのではないだろうか。
だから、今川監督が制作に関わったのは、たしかに「第3話」までなのだとしても、私個人としては「見るのなら、第1話と最終回だけで良い」と言うのである。
第1話は文句なしに素晴らしいし、最終回には今川監督は関わっていなくても、少なくとも、演出的にも作画的にも「最後の見せ場」として、かなり力の入ったものになっていたというのは認めざるを得ないからだ(あと、物語後半に登場するブラックゲッターの、初登場シーンを加えても良いが)。
ともあれ、そんなわけで、たぶん今川監督としては、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』と同じような調子で『OVA真ゲッターロボ』の第1話を作った。その結果、最初に伝えられていた「シリーズ予算」ではまったく足りないことが明らかになったのだが、今川監督としては、「第1話さえ見てもらえば、追加予算も可能だ」と、そう踏んでいたのではないだろうか。
ところが、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』の時とは違い、今回は、そう甘い話にはならなかった。
「いや、たしかに第1話は良い出来だと思いますよ。さすがは、われわれの見込んだ、今川監督だ。しかし、当初提示した予算で、最後まで作ってもらうというのは、監督も了承なさったことですよね。であるならば、大変かとは存じますが、その予算内で最良のものを作ってください。我々も趣味で投資しているのではありませんから、気安く追加予算をよこせと言われても困りますし、当初の予算で作れないのなら、打ち切りも考慮しなければなりません」などと返されてしまったのではないだろうか。
そんなわけで、今川監督は「当面、予算の範囲内で作るしかなくなった」ので、「第2話」「第3話」では「選択と集中」を行なった。
しかし、そのやり方では、根本的な解決にはならないことが判明したので、引責辞任的なかたち『新ゲッター』の制作から降りて、同作品の制作打ち切りを回避した。一一と、このような話だったのではないだろうか。
無論、これらはすべて「推測」にすぎない。
けれども、アニメ制作の現場を考えれば、十分にあり得ることだと思う。
例えば、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』が作られた『1992年から1998年まで、5年半』というのは、まだ「バブル景気の余韻」が続いていた時代である。
「バブル景気」自体は、一応のところ「1986年12月〜1991年2月」とされているが、これは「日本で起こった資産価格の上昇と好景気」の時期のことであり、言い換えれば「上昇が止まって、高止まりしていた時期とか、徐々に下降していた時期」であっても、日本人の多くは「日本の経済力」にすっかり自信を持って、それを信じきっていた。だから、客観的な「バブル景気」が終わった後も、「心理的」には「好景気」意識は続いていたのだ。
また、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』のOVA発売が『1992年から』始まったのであれば、その「企画」自体は、バブル景気の最高潮だった時期だということになる。その後、多少の景気停滞が続いても「また、そのうち景気も持ち直すさ」と、そんな楽観のあった時期に、この作品は作られているのである。
しかし、今となって言うところの『失われた30年』の起点の一つとなったのが、次のような「事件」であった。
つまり、バブル景気の最高潮時に企画され、まだその余韻の残っていた中で制作された『ジャイアントロボ THE ANIMATION』とは真逆に、『OVA真ゲッターロボ』が企画された時期とは、もはや日本の景気の持ち直しが期待できなくなった、つまり「バブルが弾けた」という危機意識が、世間一般にさえ共有され始めた時期だったのだ。
だが、たぶん、好きでアニメを作っていた今川泰宏監督には、そこまでの「読み」はなかったのではないだろうか。だから、結果として、その「甘い読み」は外れて、詰め腹を切らされることになったのではないか。
しかし、問題は、それでは終わらない。
なぜなら、日本の景気が回復しないかぎり、二度と『ジャイアントロボ THE ANIMATION』のような「贅沢な作品」は作れない、ということになるであろうからだ。
だが、こう書くと「いや、今だって、金のかかった、劇場用アニメがたくさん作られているじゃないか」と言う人も多いだろう。
しかし、そうした人たちが見落としている、重大な問題がある。それは「投資回収」の問題だ。
『ジャイアントロボ THE ANIMATION』の頃、言い換えれば「好景気」の頃には、アニメ作家たちが、その作家的良心に従って「自分が良いと思える作品」を作り、結果として、それがヒットすれば万々歳だし、仮にヒットしなくても「良い作品を残したこと」自体に価値と意味を認めることができた(文化投資だと考えられた)。「ヒットはしなかったけれど、いずれ高く評価されるよ」と、そう言うことだって可能だったのだ。
事実、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』も、「名作」だとは言え、発表当時に特別に「稼いだ作品」だったわけではないのである。
ところが、昨今の作品は「良い作品」「良心的な作品」である以前に、まず「ヒットする作品」でなければならない。
「ヒットすること」が第1目標であり、「その上で、良い作品なら申し分ない」ということなのである。
言い換えれば「ヒットしさえすれば、のちに凡作駄作だったと評価されてもかまわない」ということにもなりがちで、ひとまず「儲けた」のだし「投資を回収して、損はしなかった」のだから、「当初の目的(第1目標)は達成した」と、そんな発想になりがちだろうということだ。
たしかに今でも「金のかかった大作アニメ」は作られているだろう。だがそれは、『ジャイアントロボ THE ANIMATION』のような、アニメ作家が「作家的良心に従って作った作品」では、もはやあり得なくなった、ということなのである。
今のアニメ作家たちは、「ヒットする作品を作ること」を第1目標(あるいは、至上課題)として求められる。言い換えれば「売れる作品を作れる者が、優れた作家だ」ということになり、どんなに「優れた作品」、例えば「後に、歴史的傑作」だと称賛されるような作品を作っても、その時ヒットしなければ、そうした「良心的な作家」は、同時代においては、冷遇されざるを得ない現状に、日本のアニメ界はある、ということなのである。
『ジャイアントロボ THE ANIMATION』のような優れた作品を作った監督が、継続的に監督業を続けていない現状というのは、結局のところ「彼は、良い作品は作るけど、儲けになる作品を作ってはくれないんだよね」といった評価を受けている、ということなのではないだろうか?
しかし、そんなことで良いはずがないし、それは結局のところ、日本のアニメの「緩慢な自殺」にしかならないのではないか?
私たちは、「見る目のない人」たちが「ヒット作」でお祭り騒ぎをしている最中であっても、良心的な仕事をしている作家たちの方をこそリスペクトして、及ばずながら、彼らを支えていくべきなのではないだろうか。
(2024年2月22日)
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