富士山と並ぶ駿河名物って?【歩いて目指せ日本橋14日目】
この記事は、江戸時代の旅人みたいな放浪の旅に出たかった人生どん詰まりの京都在住OLが、京都三条大橋から東京日本橋までを徒歩で旅した18日間の記録です。
【ルール】
【前回の記事】
おはようございます。
今回は前回リタイアした新富士駅から歩き始め、吉原、原、沼津を経て三島宿まで行きます。丸一日静岡で過ごすのもこれが最後です。
吉原宿(静岡県富士市)
開始早々に吉原着きました。
吉原は富士山が一番大きく見える宿場町と聞きましたが、少し雲があるせいかこの日は見えずじまいでした。
代わりに出迎えてくれた、某夢の国の建物です。舞浜かな?
鯛屋旅館
江戸末期〜明治の侠客・清水次郎長の定宿です。「清水」は出生地かつ拠点とした清水(前回訪れた江尻の辺りです)のことです。
平家越之橋
1180年、源頼朝、甲斐源氏の武田信義と平清盛の孫・維盛が戦い、源氏側が勝利した富士川の戦いにおいて、平家側が陣を構えたあたりです。
富士川の戦いは大規模な戦闘が行われる前に平家側が撤退したので、ほぼ源氏の不戦勝だったと言われています。これを吾妻鏡、平家物語、源平盛衰記などでは、「夜分、平家は水鳥の羽音を敵襲と勘違いして逃げた」と誇張し、平家の軟弱さを際立たせるエピソードにしています。いつの時代も勝者は敗者のアホっぷりを盛るのが好きですね・・・。武士としては情けないのかもしれませんが、私は少しの物音で死ぬほどビビるので平家を笑うことはできません・・・。
この撤退で源氏が一歩リードしたので、この橋には平家を越えた=平家越という名前がついています。
左富士
この写真だけ見るとなんやねんという感じですが、東からの旅人にとって、普段右手に見える富士山が、左手に見える珍しい場所だったそうです。このことから、ここから見える富士は「左富士」と呼ばれています。
新幹線で楽に東西を往復できる現代では、富士山が新幹線のどちらの窓から見えようがあまり特別さを感じませんが、徒歩の旅だと4キロに一度お目にかかれる一里塚を見てバンザイするくらいなので、富士山が反対側に見えるなんてナニコレ珍百景レベルだったのかもしれません。(そもそも西からだとずっと左富士がデフォルトとかは言っちゃダメです)
妙法寺
元吉原宿跡
吉原を出てから基本ずっと直進なので道は迷わず済んだものの、次の原まで11キロ分直進するのは中々キツかったです・・。地図上では駿河湾に近いはずなのですが、ギリギリ見えないのが残念です。
原宿 (静岡県沼津市)
東海道を歩いて以来、原宿という字面を見るとまず思い浮かぶのがこちらになりました。隣の吉原宿の次の宿場町が原宿と原続きなのは理由があるのでしょうか?
白隠
「駿河には過ぎたるものが二つあり。富士のお山に原の白隠」という言葉があるらしいのですが、ここで謳われている富士山と同レベルですごいお坊さん・白隠の出身地がここ原宿です。
お寺で聞いた地獄の話が怖すぎて若くして出家した白隠は、全国を行脚して修行を積んだのち、22歳の若さで悟りを開きます。白隠はその後も何度も悟りを開き続けたストイックなお坊さんで、Wikipediaいわく36回(!?)という驚異的な回数を叩き出しています。そりゃ富士山と並ぶ名物扱いされます。
阿野全成
阿野全成がこのあたりの土地を治めていたらしく、選挙にでも出るんかという位の旗が立てられていました。
頼朝の兄弟といえば義経が有名ですが、頼朝は9人兄弟の3番目で、義経は九男、全成は七男です(義経と全成は母親が同じです)。直近だと鎌倉殿の新納慎也さんのイメージが強いですね。
全成は頼朝が挙兵した際には兄弟の中で一番に馳せ参じ、頼朝の死後も源氏を支えたものの、謀反を疑われて甥の頼家に殺されます。長男の義平は叔父の義賢を殺しましたが、兄弟最後の生き残り・全成は甥に殺されて終わるというのは、何とも皮肉というか・・・。
六代松
今回は源平ゆかりの史跡が続きますね!
平清盛のひ孫・六代の首がこのあたりの松の根元に葬られているといいます。六代は幼名で、清盛の家系の祖である正盛から数えて6代目という意味です。六代は壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、幼いということもあり一度は助命され出家しますが、その後殺されてしまいます。
ただ、殺された場所や時期に関する記述はまちまちで、ここの他に逗子市などにも碑が建てられているそうです。中にはそもそも殺されていなかったのではという説もあるようですが、いずれにせよ清盛の嫡流の系譜は彼で終わっています。
沼津宿(静岡県沼津市)
沼津は火災、戦災で宿場町の面影はほとんど残っていませんが、城下町の名残でクランク状になっている道が多いです。
狩野川
歌川広重が描いた沼津宿の浮世絵にも大きく描かれている狩野川です。狩野川は場所によって水底の色が異なることから、上流から黄瀬、白滝、黒瀬、青瀬、赤瀬と5色の名前がついており、それぞれの名前を冠した橋も架けられていました。ここら辺は黒瀬だそうですが、黒いといえば黒いけど・・という感じでした。
吉原を出て以降、基本駿河湾がギリギリ見えない道を東に向かって直進してきましたが、三島へ向けては、狩野川に沿って少し北上します。
八幡神社 対面石
またまた源平関連です。頼朝が生き別れの弟・義経と初めて会い、語らったといわれる場所です。
先ほど紹介した富士川の戦いで勝利をおさめたものの、東国には源氏に反抗的な勢力がまだ多く、西へ赴き平家追討を進める前に、頼朝は一度東へ引き返すこととなりました。駿河と伊豆の境界に近い黄瀬川近辺に陣を構えた翌日、1人の青年が頼朝を訪ねてきます。生き別れの弟・義経です。
義経は京都の鞍馬寺で修行を積んだ後に奥州藤原氏を頼って平泉へ向かい、その後頼朝の挙兵を聞いて静岡まで駆けつけ、その後平家追討のために果ては壇ノ浦まで行き、最後はまた奥州で亡くなっています。徒歩か馬以外の移動手段がない時代、かつ31年の短い生涯の中で、これだけ本州を駆け回った義経のスタミナに、京都から静岡に来るだけで大分グロッキーな令和のOLはひれ伏すしかありません。
千貫樋(せんがんどい)
三島の小浜池の湧水を清水町に引くための水道橋です。応仁の乱の頃に作られた、16世紀に今川、北条、武田間で和睦が成立した際に、相模の北条が駿河の今川領に長堤を築いた、などいつ作られたかは諸説ありますが、古いことには変わりありません。「千貫」というのは、「この用水が高千貫の田地を潤している」、「銭洗顔に値する難易度」、「建設に実際銭千貫かかった」など様々ですが、どれも誇張気味なあたり、この辺りにとってはとにかく重要なインフラであったことが伺えます。
路面電車
日がすっかり落ちましたが、本日のゴール・三島宿に着きました👏
今日は源平関連スポットが多かったですが、最後も鎌倉幕府二代執権・北条義時が締めてくれました。
この日の夜、宿についてから気づいたのですが、妙に荷物が軽いなと思ったら着替え以外何も持ってきていませんでした。幸い歩いて少しのところにコンビニがあったので、そこで一式揃えることができましたが、20キロ以上歩くのは苦にならないのに、たかが往復で15分もかからないコンビニに行くのは死ぬほど億劫でした。
次回は東海道最難関の箱根峠です。
思い出すだけでもトラウマ級の、本当に辛い1日でした。あの日ほど新幹線のありがたみと箱根駅伝のヤバさを感じた日はありません。「箱根八里は馬でも越すが」なんて嘘です。
基本ずっと峠を超えているだけなので、文章を紡ぐのもおそらく1番難しい区間ではあるのですが、なんとか頑張って書き上げますので読んでいただけると嬉しいです。泣
寧々
【おまけ】歌川広重の浮世絵と同じ構図で各宿場町の写真を撮るチャレンジ
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?