無意識は私を裏切らない。私が自分を裏切っているだけで。
以前、会社経営をしている男友達と遊んでいたときのことなんですけど、発信活動についてみたいな話をしていたんです。
なんの気なしに彼は言いました。
「YouTubeでヨガの動画配信とかやってみたら?ヨガなら再生数回りそうだし」
また、別の経営者の男性とお茶をしていた際に、こんなアドバイスをもらったこともありました。
「noteがある程度伸びてるなら、文章講座とかやってみれば?」
「記事の添削や文章コンサルのアフターフォローを付けて三ヶ月継続コースとかの契約にしてさ…」
そんな提案をしてもらうたびに、お気持ちありがとうねと思うのと同時に、私はこんなことも思うのです。
いや、そんなこと全然やりたくねえんだわ!笑
違うのよ、そのメンタリティじゃねえんだわ。逆逆。
ぜーんぶ、逆。
そんな全然やりたくもないことを「お金のため」「再生数のため」って、「今の自分の気持ち以外のものへの忖度のため」にやるのって、誰かに雇われて働くのとなーんにも変わらなくない??って。
というか色々身の保証がされる分、雇用してもらっているほうがずっといいでしょうねって思うんですよね。
もちろん「その先にある自由のために頑張る」ということなのでしょうけれど、
私としてはそれって、命(今この瞬間の自分という資源)の無駄遣いで、「お金が上、自分の気持ちが下」って自ら言ってしまっているようなもんなんじゃないかなって思うんです。
まー男脳と女脳の違いってことなのかもしれないのですが、
ヨガの動画配信も文章コンサルも、それをやりたくてしかたがない人がやるから素晴らしいのであって、全然やりたくもない私がお金のためにやるのは違うよねって。
「お金・他人が上、自分の気持ち・本音が下」というメンタリティでいる限り、「自分を生きる」なんて夢のまた夢になっちゃうんじゃないかなあって。
だから結局、どれだけ稼いで自己実現をしたような気になっても、何を手に入れたとしても
いつまでも満たされないし生きづらいままで「 “いつかどこかで得られるはずの幸福” 探し」をやめられない人が、こんなにも溢れてるわけでしょ。
先に結果を出している先輩方にこんなことを思うのはどうにも不真面目で不謹慎だと怒られるかもしれないのですが、
それでもどうしても、オメエら自分の命をナメんなよって、そんな気持ちになっちまうんですよね。(ついでにヨガにもお客さんにも失礼だわ)
(これはわかる人わからない人すごい分かれると思いますが)
(てか二人とも見てたらごめんね笑)
すんごいめんどくさい人だなって自分でも思います。
でも、「自分ってめんどくさい奴だ」ってことを認めるところから、自分業の歩みって始まるんじゃないのかなって思うのです。
「私はめんどくさい人間です」っていうことを隠しながら生きるのがこれまでの世界では普通のことだったし、そうでなければ身の安全が保証されない(≒お金がもらえない)ってみんなが思ってたと思う。
誰もがめんどくさい生き物なのにね。
だから自分でさえ自分のめんどくさいところを認められなかったり、自分のめんどくさいところを無視しまくって「私はちゃんとした人間です」って思い込んだ末、他人の言うことばっかり受け入れて自分と離れ離れになってたりする。
それって果たして幸せなのかな???
ちゃんとした人間・ちゃんとした大人になることをゴールにして、自分もそうなること、そこからはみ出さないように頑張ることで他人や社会から認められて安心できるし幸せになれるって、誰もが一度は信じるかもしれないけれど、
私たちはそれで本当に幸せになれたかな???
ていうか、自分のめんどくささを無視したままじゃ、自分の幸せがなんなのかすらわかんなくなっちゃうと思うのよね。
「自分のめんどくさいとこ」って、オーダーメイドの自分仕様の幸せを作るための原石だから。
で、サブスク版の購読者のかたはこの先もよかったらお付き合いいただきたいのですが
結局その「自分のめんどくさいところを無視した状態」のまま、商品やサービスを作るとどうなるかっていうと、
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