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『無価値の価値』に、ぶん殴られて目を覚ます。

世界的ベストセラーである書籍『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラル著)をご存知でしょうか。

読んだよというかたも、なんとなくタイトルや概要だけは知ってる気がする… というかたもきっと多くいらっしゃると思います。


この中で著者のハラル氏は、私たちホモサピエンスが(他の人類的な生き物と比べ、私たちの祖先がそこまで強く賢いわけではなかったにも関わらず)ここまで繁栄することのできた要因のひとつとして

「私たちが虚構(フィクション)を生み出し信じることのできる生き物だったから」

ということを挙げています。


私自身はちゃんと読んだわけではないので(読んでないんかい)、わかったような口をきけるようなアレでもないのですが

「人類は、フィクション(ウソ)を信じることで繁栄している生き物である」というざっくりとした概要だけは知っていて、そしてこれって感覚的にすごく腑に落ちるなああ…と感じています。

子供の頃から感じていた学校とか人間社会というものが醸し出してくる違和感というものの正体が、『虚構(フィクション)』という単語一語に、きれいにバチッとはまった感じがしたんですよね。


国家、法律、会社、お金、宗教、人権などなど、ありとあらゆるものが人間の作り出したフィクション(虚構)に過ぎないにも関わらず、

私たちはそれらの絶対性を、あたかも疑いようのないものであるかのように信じて生きていますよね。


先日Instagramのほうに、こんな投稿をしたんですけれど…


この投稿のキャプション(説明文)にこんなことを書きました。

⁡何かしないと⁡
とんでもないことになる。⁡
⁡⁡
⁡自分だけ置いていかれたら⁡
⁡大変なことになる。⁡
⁡⁡⁡
⁡⁡
それらは全て⁡、作られた幻想。⁡⁡

⁡社会という映画館で⁡
⁡みんなで見ている
⁡怖い怖い映画のようなもの。⁡⁡
⁡⁡
⁡⁡
⁡「私には価値がない」⁡なんて⁡、
⁡とんだ夢物語だったのです。

「社会という映画館でみんなでみている映画」って言葉が、自分で言っててなんか妙にしっくりくるなと思ったんです。


これまで大多数の人が信じ込んできた『正解』なんてのは、実際は限りなく不確かで、力のある者のご都合次第でコロコロ変わってしまうもの。

生きてく上で何が正しくて何が間違っているのか、私たちにとって価値のあることってなんなのか、その絶対的な正解であると思われてきたものでさえ、

全てはみんなで見ている共通のまぼろしだったのです。


私たち国民が心の奥底で信念として持っているであろう「このままの私には価値がない」という共通認識。

言ってみれば、それでさえも単なる『夢物語』にすぎなかったのです。


「自己肯定感を取り戻そう」なんて、最近は盛んに言われていますけれど。

それって本質的には、小手先のテクニックや行動で「自分を褒めよう♡」とか「自分を好きになろう♡」とかそんなほんわかした次元の話ではなく、

むしろ、無価値感という趣味の悪い夢を見ていた(わざわざ眠らされ見させられていた)私たちにとっては「自分の本来持っている価値というものにぶん殴られて目を覚ます」っていう、そのくらいセンセーショナルなものであると思うんです。


………


私は、最近のnoteの更新で「世界が(素敵なほうに)ひっくり返る」とか、そういう感じのことを書いてきました。

この(素敵なほうに)というのは、これまで家庭や学校、社会の中で生き辛さ・息苦しさ・ある種の窮屈さ・疎外感を感じていたかたにとっては特に「素敵」と感じられるようなものだと思うのですが。

そのことについて、現段階で実際にどんなふうに「変わって」きているのか、これからどんなことに意識を向けて過ごしたらいいのかなんてことを掘り下げて、今日は日々感じていることをシェアしていきたいなと思います。


それではここから本題に入ります(え?)

では一緒に参りましょう♡(前置きなげええええええええええェェェェェ)


………


まず「ひっくり返っているもの」のひとつとして、『無価値なものの価値が(大幅に)見直される』という動きが起こっていると感じます。

たとえば「時間の価値」が「お金の価値」を超えるとか。

たとえば「見えないものの価値」が「物質の価値を超える」とか。


こういう「本当は物凄い価値があるのに、全然価値がないことにされてきたよね(経済を回すためにね)」というものにまつわる価値観の転換が、

限られた人たちの間だけではなく、もっと広い場所で起こっているし、その認知はさらに加速して市民権を得ていくんじゃないかということなんです。


いつだったか、少し前に、日本のビジネス界を牽引している著名人四名によるクローズドの対談をオンライン視聴したんですけど…

あんまり詳しくはここでは書けないんですが、二時間超に及ぶ「ビジネス、クリエイターエコノミーの今後について」的なテーマの座談会の最後の最後の締めのところで、みなさんこんなことをおっしゃっていたんです。

🌼 とりあえず焚き火でもしよう
🌼 サウナ行こう
🌼 無になる時間作ろう

私のようなふわふわお花畑人間でなく、ガッチガチのビジネス・DX畑にいるスーパーエリートの方々がこう言っているのだからすごいですよね。


すなお氏まーた自分に都合のいいところばっか切り取って言ってんじゃないのって言われたらまあその通りなんですが、、

でももう少しだけ書かせていただきますと、

「 “役に立つ” から “意味がある” へ」(by山口周さん)という、いわば最先端であった価値観が、今となっては普通になりすぎた(多くの人の意識に定着した)ために

今度は、“意味がある” からさらにその先の “意味がない” に移っていくのではという話だったんですね。


人間どうせ暇になるんだから、「意味も価値もないけど、なんか楽しそうに暇つぶしてる人」の需要が高まる。

現時点の私たちの価値観では解説のされようのないことに意味(価値)が出てくる。

そういうお話しでした。

オンライン対談、ご興味あるかたはこちらからちょっと見れます(全部視聴するのは有料だけどめちゃくちゃおもしろいんでぜひ🌼)

※ まあ正直に言いますと、私自身がこの対談を視聴する際の動機として求めた価値は「役に立つ」であり「意味がある」だったりするんですけどね。笑



また、冒頭で登場した『サピエンス全史』の著者ハラルさんは、自身の他の著書にて「これからの時代を生きるために必要なこと」的なもののひとつに『瞑想(ヴィパッサナー瞑想)』を挙げています。

ITやバイオテクノロジーの研究開発が進んで私たちの生活にもっともっと浸透していくと、自分よりも機械のほうが自分の身体や心についてさえも詳しくなる時代が来る。


でも本当にそれでいいの?って。

人間の「できること」が全て機械に取って代わられる時代の最後の砦として、自分を知るツールとしての瞑想を勧めているということなのですよね。

人間にあって機械にないもの、それが『自意識』というものだから。(だそうです)

※ちなみに『サピエンス全史』を書き上げた裏側には、一日二時間(!!!)に及ぶ瞑想があったとのこと。二時間ってレベチすぎる。。


おもしろいですよね。

『自意識』って、これまでの社会で強く生き抜くためには一番と言っていいほど「要らないもの」「邪魔なもの」とされてきたものですから。


………


これらのことを受け、私は思いました。

この令和以降の時代に、「スキル」や「資格」「実績」「肩書き」などに代わり私たちにとって大きなチカラとなってくれるものとは、

そして同時に私たち個人を世界と強力に接続するもの、そのキーワードとなるもの・・・


それは、

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