ナンバープレートの歴史社会学(仮)
幼少の頃のわたしにとってクルマの移動時間は果てしなく長く感じた。
寝ても寝ても泣いても泣いても着きやしない。
絶望的に暇を持て余したわたしは、高速から見える看板という看板を読み上げ、周辺のクルマのナンバープレートを眺めはじめた。
そのおかげか、交通へのマニアックな興味をかき立てていくことになった。
そんなマニアックな興味が、まさかの学業に生きたことがあった。そこで、このたび何を思い立ったか、その興味が生きたレポートの内容を大幅に加筆修正することにした。
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はじめに
全国最多のナンバープレート数を有する県をご存じだろうか。
意外なことに、人口最多でも自動車保有台数最多でもない千葉県である(ちなみに自動車保有台数最多は愛知県)。
なぜこのようなことになったのだろうか。
それには、ナンバープレートに込められた物語性と千葉県の深ーい歴史が関係していたのだった。
1.ナショナリズムによる地域統合
写真左側は「習志野ナンバー」、右側は「柏ナンバー」のクルマである。
しかし、かつてこれらの地域のナンバープレートは「習志野」のみであった。
習志野の名は1873年、明治天皇が東京防衛の要となる陸軍演習場を行幸し、「習志野原」と命名したことに由来する。
1968年、千葉陸運事務所習志野支所(当時)が船橋市に開設されたことによって習志野ナンバーが成立した。
こうした背景には、当時この地域の各市の規模が伯仲していたことがあると考えられる。
県庁所在地の千葉市は「県都」と評される一方、船橋市は「商都」と評され、人口密度や街の発展度で千葉市を大きく凌駕した。なにしろ「ららぽーと」の一号店は船橋にあるくらいだ。
しかし、日蓮宗大本山、中山法華経寺を抱える市川市や、徳川家ゆかりの街である松戸市からしたら、ぽっと出の船橋の台頭など面白いはずがないだろう。
しかし、市川松戸どちらの市もいわば千葉の端であるというネックがあった。
そこで、天皇が名づけたという「習志野」がもつ「ナショナリズム」を帯びた物語性を利用し、ナンバープレート名に採用することで、地域統合に利用したと考えられる。
ヘタな歴史や都市の規模より、天皇の威光に勝るものはない。そのようないかにも「昭和の日本」らしい決断がはかられたと考えられる。
一方、千葉県南部一帯は、千葉ナンバーから「袖ヶ浦」ナンバーが独立した。
袖ヶ浦は、『古事記』(日本神話)に登場する日本武尊の妻の「袖」が流れ着いた海岸=浦に由来し、現在の袖ヶ浦市のみならず、幅広い地域の名称として使われている。
つまりここでも習志野と同様、再びナショナリズム的な物語性に基づく地域統合がはかられたといえる。
2.千葉の停滞と「大きな物語」の終焉
さて昭和後期、船橋市と習志野市にまたがる津田沼はパルコ、マルイ、イトーヨーカドー、ダイエー、西友、高島屋といった大型商業施設が乱立し、「津田沼戦争」と呼ばれた。
いまじゃ考えられないが、吉祥寺と肩を並べる存在だったとか。
まさに、商業ブランドとしての「習志野」の絶頂期だったというわけだ。
しかし、バブル崩壊とそれに起因する西武グループとダイエーの低迷、さらにいつまで経っても完成しない成田空港(実はいまも完成していないのだが)の停滞による開発の遅れが長期化した。
それらが相まって、津田沼どころか習志野ナンバーを冠する地域全体にかげりがみえてきた。
そのさなかの1997年、習志野ナンバーの該当地域の北部が「野田」ナンバーとして分離した。
この分離によって、総武線沿線は習志野ナンバー、常磐線沿線は野田ナンバーという形で棲み分けがなされた。
このように、かつて「大きな物語」をまとったブランドとして成立していた習志野の神通力は確実に低下していったのである。
3.ご当地ナンバーとローカリズム
そして、21世紀に入り、地域振興が課題となるなかで国土交通省はある施策を打ち出した。
いわゆる「ご当地ナンバー」の導入である。
ご当地ナンバーとは、「地域活性化や観光振興のため、地元が希望する独自の地名を表示した自動車ナンバープレート」である。
従来、ナンバープレートは自動車検査登録地に限られており、登録事務所が設置されている地域の名称=ナンバープレートであった。
それに対しご当地ナンバーは、自動車検査登録地以外の地名を登録できる特徴をもつ。
全国を走り回るナンバープレートは表示地域の観光PRや知名度向上などの効果が期待できるとして、2006年から導入がはじまった。
その初年度に採用されたのが、「柏」ナンバーである。
「東の渋谷」との異名をもつ柏は、従来千葉県の中心となってきた総武線沿線とは異なる地域圏を形成してきた。
そんな柏が、ご当地ナンバー制度導入に伴ってさっそく野田ナンバーから独立することになったのである。
しかし、柏ナンバー導入後、とある番組がさらなるナンバープレート導入の機運を高めることになる。
それが、『月曜から夜ふかし』だ。
『夜ふかし』は柏市と松戸市の長年の確執を以下のように取り上げた。
柏市のほうが松戸市よりも都心から遠く人口も少ない一方、柏駅がめざましい発展を遂げ関東有数のターミナルとなったことで、以下の画像のように両市のいびつな関係が続いてきた。
そして、番組内で槍玉にあげられたのがナンバープレートである。
これが松戸市のプライドに火をつけ、市民アンケートをとった結果、松戸市も独自にナンバープレートを導入することになったと考えられる。
そんな松戸市と同様、これまで「習志野」の名の下にまとまってきた市川と船橋の両市も独自のナンバープレートを導入した。
さらに、袖ヶ浦ナンバーから「市原」ナンバーが独立した。
いずれの例も、市が熱心に導入を目指したとか、習志野ナンバーで不都合があったわけではなく、市民の声に突き上げられたかたちのようだ。
4.まとめ
もはやなにがなんだかわからなくなってきたが、時系列でまとめると下記の図表になる。
結局、当初は「習志野ナンバー」に区分された地域は、2021年現在、野田、柏、松戸、市川、船橋、習志野の6つに分かれることになった。
つまり、天皇や日本神話といったナショナリズム的な言説を利用した、地域統合の象徴としての「ナンバープレート」がいまや、自治体単位での「ローカリズム」に基づくに地域乱立の様相を呈しているといえる。
それはまた、J.F.リオタールの示した「大きな物語」の終焉に対する、日本の実例であると解釈することができる。
このように、ナンバープレートひとつをとっても、さまざまな言説と物語性、そして社会構造がみえてくる。
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以上がレポートのネタ出しである。
ほんとうはこのような感じのテーマでアカデミックな世界を生きてみたかったけど、その話はまた今度にするとして…
とりあえず免許の更新いかなきゃ。
主要参考資料
コトバンク,「ご当地ナンバー」https://kotobank.jp/word/%E3%81%94%E5%BD%93%E5%9C%B0%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC-187276
習志野市HP,2016,「習志野の歴史と年表」https://www.city.narashino.lg.jp/citysales/kanko/bunkahistory/rekishi.html
乗りものニュース,2020.5.8,「習志野から独立 ご当地ナンバー「船橋」誕生 元の習志野でも違和感なしの声も…なぜ? 」https://trafficnews.jp/post/96138/2
ナンバープレート情報局,2020,「ナンバープレートの歴史」http://nplate.html.xdomain.jp/misc/history.html
袖ヶ浦市観光協会,「袖ヶ浦市ってどんな所?」https://sodegaurakanko.org/what
読売新聞オンライン, 2021.2.27,「津田沼戦争の象徴、閉店決定したパルコの買い物客数減らした「鉄道の開業」 」https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210226-OYT1T50295/