ヤケになって『(500)日のサマー』を観る
いろいろあった昨日、帰り道に地元のゲオによって、久しぶりに映画をレンタルした。借りたのは『(500)日のサマー』と『羊たちの沈黙』。どちらもずっと観たい作品だったのだけど、わたしの契約している配信サービスにないため、ずっと後回しにしていた。
帰宅して、『大豆田とわ子と三人の元夫』を観て、友人との電話を済ませたら日付が変わってた。
そしたら反射的に『(500)日のサマー』を再生していた。
詳細はさまざまな映画サイトに任せるが、本作は見事なまでに賛否がわかれている。
その「否」の代表例が、ヒロインのサマーの言動に対して「ズルい」のではないか?、主人公・トムは単に振りまわされるアホなのではないか?という指摘だ。
たしかにトムからしたら、奔放なサマーに振り回されて散々な経験をしたことだと思う。
でもサマーは、はじめにトムに対して「友達でいる」ことを確認しあっているわけで、その内容と過程はともかくとしても「友達」でいようとしたのだと、わたしには思えた。
それに対してトムは、いろんな意味で「許してくれる」サマーに寄りかかりまくりで、あげく「僕は特別なんだね」って言い出す始末。
ヴェルタースオリジナルじゃないんだからさ…。
もっとこう、相手の気持ちを汲み取ったほうがいいんじゃないかってわたしでさえわかる。
とはいえ、恋愛経験の少ないトムがひとりで勝手に盛り上がっているわけでもない。サマーもトムと接するうちに、彼との関係性に「運命」を感じようとしたのだろう。
だけどトムはサマーに運命をもたらしてくれなかった。
その間サマーは、デリカテッセンで知り合った相手に「運命」を感じ、恋人どころか結婚までしてしまう。
トム氏、「運命」に完全敗北。5回コールド完封負け。
どれだけ濃密な関係を築いたとしても、「運命」という「稲妻の一撃」には敵わないのである。
ただ、「運命」という本能的なものに駆られたサマーが行き着くのが「結婚」という社会的に制度化されたものっていうのがなんとも滑稽ではある。
サマーには、制度にとらわれず最後まで奔放でいてほしかった気もする…。
けどまぁ、とにかく「運命」の破壊力はやはり凄まじい。「そんなんできひんやん普通」を軽々乗り越えてくる。「運命」ハンパないって。
「好きは考える前にあること」って大豆田とわ子も言ってたように、「好き」について論理立てて語るより、「運命」のひとことで片づけたほうが明らかに強い。
でも、そんな言うほど「運命」って普遍的に散らばってるのかな?とも思う。
「運命」を信じないわけではないけど、それってガチャでSSRを引くようなものであって、「運命」にめぐり合うためには多大なコストがかかるような気がしてしかたないのです…。
夢のない話をしてるって?
そりゃそうよ。だって他のことで夢みてるんだもの、このあたりくらい現実みないと。
ただ、この映画でひとつ勉強になったことがある。
IKEAでイチャつくカップルはヤバい。ヤバいわ。
気をつけよ…。なにをどう気をつけるかわかんないけど。
わたしにとって、ヤケになって観る映画はいつだって不思議で、いつだって良い思い出になる。
さて次は『羊たちの沈黙』にどっぷり浸かりますかね…。