なぜ学習効果は時間に比例しないのか、という話。
学生時代、不思議に思っていたことがある。勉強をした後の模試ほど、何故か成績が振るわなかったのだ。勿論、「勉強をしても意味がないから…」という結論を得て、エスケープしたい気持ちはあった。しかし、学習した時は、間違いなく点を伸ばしたい時である。効果を実感できない理不尽さに、学生時代、随分と悩まされたものだ。
イギリスに来てからも、同じような経験をしている。昨日はあんなに頭が冴え、滑らかに話せていたはずなのに、今日は先生の言っていることが耳から耳へと抜けてゆく。耳が一日で劣化したとか、舌が寝ている間に入れ替わったとか。昨日見下ろした絶景を、瀑布の真下から見上げるようだ。リーディングも同じ。昨日はあんなに複雑な文章を読んでいたのに、今日はこんなに簡単な疑問文ですら頭に入ってこない。そういう日が、数日毎に訪れる。
眠り方を忘れてしまった子供時代を思い出す。12時、1時、2時。時計が進んでも、昨晩まで一体どのように寝ていたのか思い出せない。冷や汗を殺して、「バカバカしい」と放棄した「羊」に縋っても目は冴えてゆく。いよいよ白む東空の微光を、極限まで活性化した桿体細胞は逃してくれはしない。頭の中でどのような情報の、一体どの部分に着目し、いつどのように日本語と英語を切り替えていたのか。よどみに浮かぶプロセスは、結びを解かれて消失し、無常だけが残る。
ある日、手狭なバスの車中にて、この現象の原因に思いを巡らせていた。そして、「ああ…」と理解した。確率と学習効果とのバランスの問題である。例えば、手元に1,000個の英単語があり、日常的に使用される英単語が10,000個あるとする。たまたま1,000個にヒットする単語が多ければ理解度は上がるし、そうでなければ下がる。文法、コロケーション、話者の発音のパターンから、背景知識、相手との関係性、その日の私の健康状態に至るまで、膨大な変数を経て、脳内の情報処理がなされていく。英単語が、1,000個から1,200個に増えたとて実感に乏しいのは、学習効果が変数の影響の範囲内に留まっているからである。例えば、1,000個から2,000個に増えれば、かなりの確率で学習効果を実感できるシーンが増えるだろう。試験と名のつくものも同じだ。
縦軸に学習成果、横軸に時間を置いた時の成長曲線は、階段状などではない。それは「平行四辺形で図示される範囲の何処かを通る曲線」であるとしか表現できない。
まあ、至極どうでも良い話である。結局、確率に振り回されないように色々な能力を高めて行きましょうね、というだけのことなのだから。明日も頑張ろう。運命の神様を、運命と関係の無い力で倒せてしまえるように。
何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)