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水底にて|hidemaro

 それはもう、日常と言っても差し支えない速報のテロップ。「防衛省は北朝鮮から弾道ミサイルが発射され、いずれも日本のEEZ=排他的経済水域の外側に落下したとみられると発表しました」もちろん国民は、人間は誰一人傷付くことはなかった。しかしそのミサイルによって、一匹のミンククジラが射抜かれて死んだ。
 死んだことが公になることはない。ミサイルは海中深くで爆発したのだ。しかし、私にはミンククジラが死んだことがわかった。ミサイルによる、唯一の被害者。すごい小さなことで言えば、プランクトンだって、小魚だって、爆発後の漂った部品を食べて死ぬイルカだっているかもしれない。でも、はっきりとした犠牲者は、ミンククジラだけなのだ。
「ねえ、前世って信じる?」
 今年の夏フェスで買ったお揃いのサーモンピンクのパーカーを着て、風呂上がりのビールを飲んでいる彼に話し掛ける。テレビでは、夜のニュース番組が流れている。
「前世ねえ。信じるも信じないも、あなた次第です」
「真面目に」
「……あると思うよ。なんとなくだけどさ。どうしたの急に」
 彼は私の様子に気が付いたのか、体を起こしてこちらを向いて訊く。
「私、前世多分ミンククジラだったかもしんない」
「あ、え。どこかの姫とかじゃなくて、クジラなんだ」
「うん。今朝さ、ミサイル飛んでたでしょ」
「北朝鮮の」
「そう。そのミサイルで、多分私の前世の旦那が死んだ」
「どうして、そう思うの」
 こういう時、この人と一緒にいて良かったなと心底思う。だって普通、前世がクジラで、ミサイルで旦那が死んだって言われたらドン引きだ。でも、こうして真剣に聞いてくれる、そんなところも好きだと思えた。
「なんかね、今朝なんでもないのに、すっごく胸が苦しくて、たまらなかったの。感情的な苦しさ。切なさとも少し違って、心の奥が締め付けられるやつ。それで、そのあと速報テロップを見た瞬間に思ったんだ。あ、あの人死んだんだって」
「あの人ってのは、前世の旦那さんだったクジラ」
「そう。私はもう転生してるけど、あの人はまだ生きていたんだって、突然思い出したんだよ。思い出したっていうか、閃いたっていうか。それから、今日はずっと苦しかった」
 明確に悲しさも感じられないのに、私の頬にはいつの間にか涙が流れていた。彼はビールを机に置くと私の側まで来て、そっと肩を抱いてくれた。
「じゃあ、彼に献杯しようよ」
 私はその提案に頷いて立ち上がると、冷蔵庫から新しいビールを取り出して勢いよくプルタブを引く。プシュッと滲み出てきた泡は、深い深い水底から立ち上る水泡に思えた。


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