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教育者「人に夢を与えたい」という言葉と家族って何って話。

5月19日11:00、その日とある授業にて。

私は小学校6年生からずっと、特別支援学校の教師を志していました。大学に入学してやりたいことが変わってからも教員免許を取得するために授業を受けています。

将来、もし先生になりたいかも?って思ったときに、教育実習で過ごした経験は、教職に就くか否か選択する際に判断材料になるから。

いつもと同じ、コロナの影響でオンライン授業をzoomで受講。「特別支援学校 教育実習」

何気ない時間、当たり障りのない会話、抽象的な何度も聞いたような教育論。

大学5年生にもなって教育実習に向けた面談練習とか、何か得られるのか?と中途半端な姿勢で授業に臨んでいた。

しかし、教授のある一言が引っかかった。

「この前、〇〇さんが話してた子どもたちに“夢を与える”ってどういうことなんだろうね。」

教授曰く、やりたいことや夢ってのは他者から“与えられる”ものじゃない。〇〇さんが特別支援学校の教師を志したのは、誰かから指示された訳じゃなくて自分で意思決定したように、それは自分で見つけるもの。

学校の担任をはじめ、教育者ってのは、“やりたいことを見つけられるように導く”役割を担っていると思うんだよね。

とある女子大生〇〇さんが何気なく発した“夢を与える”という言葉。人の想いは言葉の節々に現れるというが、こんな一言から教育に対する姿勢が汲み取れるなんて、言葉ってのは思っていたよりも奥深いらしい。

私は以前、知人と「(教育に限らず)手助けする対象は万人ではなくて、主体性のある(手助けを求める)人に絞った方が、双方にとって幸せだよね」そんな話をしていた。

成長や支えを能動的に必要としていない人に向けて「~した方が良いよ!」なんて、ポジティブな働きかけをしたって、現状幸せな人にとっては迷惑でしかない。だったら、必要としている人に全力でアプローチしていた方が両者が幸せになれる。そう思っていた。プログラミングとか長期インターンの経験とか。

でも、それを特別支援教育に置き換えた場合どうだろうか。障害の有無はあまり関係のない話題だと思っていたが、人が能動的に何かを求めるか?という観点においては、こちらから働きかけないと一生気付けない可能性もある。

そもそも最低限の力や経験値が備わっていないと、何かを求めたり何かをしたい、といった思考へ至らないと考えている。たとえば、物事に粘り強く挑戦し続ける継続力や、~してみたい!といった自分自身の心に向き合う意思決定力などが該当する。

人の人生に干渉しすぎることに肯定的でなく、必要な時に、必要なだけ関与し合うことが人の幸せだと考えていた私は、答えが出せないまま教授に相談することにした。

「~したいと望む人に向けた教育こそ重要で、無理矢理こちらの望む方向へ導いたり、自分の意志を偽ってまで成長させることは教育者のエゴだと思っています。ですが、特別支援教育の場合、最低限の意思決定や成長する経験は身に付ける必要があると思っていて、その線引きを教えていただきたいです。」

特別支援学校の校長先生としても教鞭を執っていた教授は次のように続けた。

「教育者の仕事は子どもたちが挫折を乗り越えていくための力を養ってあげること。これから子どもたちは沢山の困難にぶつかって、多くの辛い経験をすることになる。私たち教育者はその力を養うために、その子の可能性を見つけて、認めてあげることが役割だと思うんだ。」

やりたいことを見つけられるように導くのが教育者の役割

子どもの可能性を見つけて、認めてあげるのも教育者の役割

教員免許を取得予定の私がいうのもあれだが、“教育者”という言葉はしっくりきていない。

“伴走者”って表現がすき。クラスの置いてけぼりを気にせず先導したり、自分の教育観を子どもに押し付けるなんてことは死んでもしたくない。だから、一緒に肩を組んで走れる人でありたい。だから少人数クラスを担当できる特別支援学校に惹かれたってのもある。

うまく言えないけど、これまでは何かを主体的に求めてきた人にだけ手助けをする、いわゆる“与える”ってことをしてきた。

けどそうじゃなくて、私の目指す理想の教育は、“一緒に可能性を拡げること”なのだと思う。

うーん。これがなかなか難しい。。。

先に述べたプログラミングの重要性や長期インターンの経験は、「自分で可能性を拡げられる人」にとって必要か判断するべきかもしれない。

教育の場においては、それがまだ未熟だったり、自分1人の力じゃ困難な子どももいる。

これといった線引きは結局分からなかったけど、これから人の支えになりたいと願うのであれば、いつか明確に理解しなくちゃいけないと思う。

これからの人生の課題だなあ、なんて。

おまけ

自閉症の兄のいる女子大生の話。

比較的軽度ではあるものの、妹の女子大生からすれば、何かできないことがあると「なんでできないの!?」と少し感情的になってしまう場面が度々あるらしい。

これって障害の有無は関係なくて、“家族のような”繋がりの強い関係性の人物と関わりをもつ際には、悪いところばかりに目がいってしまう。

家族には「こうなってほしい!」といった強い思いがあるからだそうだ。

でもこれって、完全な利他精神の純度100%の願いかというとそうではない気がする。

周りのお友達からの好寄の目で見られたくない。

お父さん、お母さんが大変な思いをしていて嫌だ。

そんな想いもあるかと思う。

そうなると、施設で働く職員でよくある怒鳴り散らすマンと何が違うのだろうか?

怒鳴り散らしたり体罰をしてしまう指導者には、「その子にこうなってほしい!」といった前向きな者と、「自分の思い通りになってほしい!」といった後ろ向きな者がいると思っている。

そうなると家族のような繋がりは関係ない。

家族ってなんだろう?

家族のようなつながりとか聞くけどなんだろう?

これから考えてみても面白いかもですね。







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