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銀河鉄道の夜 銀河の中心へ

九、ジョバンニの切符(つづき)

前回は、鳥捕りが居なくなり、もっと話をすれば良かったと後悔する二人、というところまで書きました。
ここからは特に、星座の配置がわかるものを見ながら、本を読んでいく事をお勧めします。
カムパネルラが持っている地図(星座早見)などがあれば尚いいです。

「何だか苹果の匂いがする。僕いま苹果のことを考えた為だろうか。」

P228、6行目

※苹果は りんご です。こういう字があるとは知りませんでした。
今では林檎が一般的ですね。

ここで新たに乗客が加わります。青年と二人の子供の三人です。
二人の子供は姉と弟で、名前は「かおる」と「タダシ」で、それに連れ添っている青年は二人の家庭教師です。
ここまでは影が薄いですが、実は燈台看守も近くの席にいます。

青年と子供の三人は、乗っていた船が氷山に衝突して沈没してしまい、溺れて意識が遠のき、気が付くと汽車の中にいたとの事です。
数が足りない救命ボートには、女性や子供を優先的に乗せていたので、自分も二人の姉弟を乗せてもらおうと思ったが、目の前にはボートに乗り切れないほどの子供たちがいて、彼らを押しのけてまでして助かる事が、本当に幸福な生き方なのだろうかと。
いっそ、このまま神の御前に召されるほうが幸せなのではないか、と思いなおして、二人を離さないように抱きしめて、その結果、三人一緒に汽車に乗っている。
このような話を、燈台看守が聞き役になって話しています。その間、姉弟はジョバンニとカムパネルラの横でスヤスヤ眠っています。

林檎の香りと共に、この三人は登場しますが、林檎とはこの作品ではキリスト教のメタファーです。つまり三人はキリスト教徒。
アダムとイブが食べた禁断の実とも知恵の実とも言われる果実は林檎でした。イブに勧めたのが蛇、アダムに勧めたのがイブ。林檎を食べた事により、羞恥心が芽生えたのか、裸でいる事が恥ずかしくなり、イチジクの葉で身体を隠すようになり、又禁断の果実を食べたことで、人間はいつか必ず死ぬという罰を受けますね。

一応書いておくと、聖書には林檎とは書かれていません。宗教画によって描かれた禁断の果実が林檎だったことや、「失楽園」にも林檎と書かれたことなどが元で、林檎と言う認識が広まっただけのようです。
なぜ、宗教画では林檎として描かれたのかについては諸説あるようですが、ギリシャ神話が元ではないかという説があります、それには黄金の林檎が出てきます。

銀河鉄道ではこのあと、燈台看守が林檎を皆に配ります。青年と姉は食べたかどうか記述がありませんが、弟タダシのほうはパイでも食べるように、食べてしまいます。ジョバンニとカムパネルラはポケットに大事に仕舞います。

黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果

P234、後ろから3行目

林檎の立派さに、我を忘れて青年が魅入ります。そして、こんな立派な林檎がどこでできるのかと聞くと。燈台看守は

「この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいいものができるような約束になって居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子さえ播けばひとりでにどんどんできます。

P235、後ろから3行目

仏の目から見た世界の事かと思います。どんなに乱れた世界であっても仏には楽土に見えるという、法華経如来寿量品第十六の自我偈の一節を連想してしまいます。
我此土安穩 天人常充滿 園林諸堂閣 種種寶莊嚴
(がしどあんのん てんにんじょうじゅうまん おんりんしょどうかく
しゅじゅほうしょうごん)
私(釈迦)の境界から見ればそのありのままが浄土であり、安穏な世界であり、常に天人で満ちあふれ、美しい花園の中の御殿は、皆種々の宝をもって飾って

燈台看守は更に続けて言います。

けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。

P236、1行目

この「あなたがたのいらっしゃる方」とは何のことでしょうか。
この話は、タダシが目を覚まして「お母さんの夢を見た」と言い、そこで有耶無耶になります。

先へ進めます。

ジョバンニの負の面が描写されていきます。
かおるが、車窓の鳥をカラスだと言うと、あれはカササギだとカムパネルラに間違いを指摘され、それを見たジョバンニは「いい気味だ」と言わんばかりに喜んだり。かおるが話しかけてきても、冷たい態度をとり続け、挙句、そんな自分に嫌悪したりします。
カムパネルラとかおるが、親密に話をしだすと又不機嫌になったりして。もうこれは嫉妬ですね。カムパネルラを独り占めしたい。二人だけで旅をしたい。という強い執着が伺えます。
終いには、カムパネルラに対しても冷たい態度をとってしまうジョバンニです。
カササギと言えば七夕でしょう。織姫と彦星は、カササギの橋を渡って天の川を渡りますね。この場合の織姫と彦星は、カムパネルラとかおる、又はジョバンニとカムパネルラのどちらとも取れます。かおるは晴れ。ジョバンニは雨。

そして徐々に速度を落とし、小さな停車場に着きます。

その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子は風もなくなり汽車もうごかずしずかなしずかな野原のなかにカチッカチッと正しく時を刻んで行くのでした。

P243、後ろから8行目

この時野原の向こうから、微かな旋律が聞こえてきます。それはこの曲であろうと言われています。

こうして静かな静かな停車場で、乗客の全てが心穏やかに、満ち足りた思いに浸っている中、ジョバンニの心だけは揺らぎ、寂しく孤独になっていく。そんな自分を嫌悪したりもする。
自己の執着によって、嫉妬や他者との争いをする様を、賢治は「修羅」と考えていたのではないかと思います。このジョバンニの心象は賢治そのものかもしれません。

四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

春と修羅
  (mental sketch modified)


そしてカムパネルラも寂しそうに、星めぐりの口笛を吹いている。

やがて汽車は、ゆっくりと走り出してトウモロコシ畑を過ぎ、大きな黒い野原になり、新世界交響楽はいよいよはっきり地平線の果てから湧き、野原の中に、馬に乗ったインディアンが現れます。
インディアンは頭に白い羽を付け、弓矢を持っていて、その弓矢で一羽の鶴を射ます。

鶴は法華経だとすると、この部分は一体、どう解釈したら良いのか。正直言ってわかりません。
星座早見を見ると、インディアン座というのがあります。位置的には射手座も近いです。鶴座というものもあります。いずれも南の方の星座です。
他には、孔雀も出てきますが、孔雀も星座です。
星座に合せたものが多く登場しますが、それら全てに意味があるのかどうか分かりません。今後の考察の対象です。

そしてこの後、真っ赤に燃えるさそりが出てきます。さそりは良い虫だ、とかおるが言うと。尻尾に鋭い針があって、生き物の命を奪う悪い虫だとジョバンニが返す。
ここでかおるが、わが身を真っ赤にして焼くさそりは、暗い夜空を照らしている。自分を犠牲にして他人の為に奉仕しているのだ。という話をします。
これは、姉弟の父親から聞いた話とのこと。

さそり座も南の空の星座です。これは自己犠牲の話ですので、沈没船のエピソードにも重なります。

さそりの火のあと、突然にケンタウル祭の行われている、ケンタウルの村へ差し掛かります。
とは言え、ここは地上の村ではありません。あくまでも銀河の川辺です。

そして、ここで原稿が紛失しているそうです。
私が読んでいる新潮文庫の「新編 銀河鉄道の夜」には

〔以下原稿一枚?なし〕

と書かれています。
もうじきサザンクロスだから降りる準備をしだすところから続きが始まります。天上のケンタウル祭の記述がほとんどされていない事になりますね。
結構大事なところだと思うんですが。。。

汽車を降りるというと、タダシが汽車を降りたくないと言い出します。
青年が、ここで降りなければいけないのだというと、ジョバンニが見兼ねて、一緒に旅を続けようとタダシに言います。どこまでも行ける切符を持っているんだと。
するとかおるが、天上にいくのだからここで降りなければいけないのよ、と言い、更にジョバンニが

「天上へなんて行かなくったっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」

P252、5行目

ここはまさに、賢治が考えるキリスト教観と法華経観の対立です。
このあと、かおるがお母さんも天上に行っているし、神もそう言っていると反論すると「そんなの嘘の神様だ」とジョバンニが言いだし、軽い口論になります。
ここで青年が割って入り、ここでも有耶無耶になりますが、注意深く読んでいくと、ジョバンニは自分が信じるもの、正確には帰依するものを神だとは言ってません。
かおるから「あなたの神様」と、いわばレッテルを貼られて、それを引用して神と返しているだけで、ジョバンニの中には神という言葉が無かった事がわかります。言葉に出来ない概念をかおるに「神」と言われたので、その言葉につられただけですね。
そして、彼らが言う「神」とジョバンニの「神」が、根本的に違うことを感じた彼は、よくわからないといいつつも「ほんとうのたった一人の神」と言い換えます。
でも、これでも反論になりません。何故なら青年らが考える神も本当の神でたった一人だからです。

そもそも、仏教では神は一人ではありませんし、神は完全な存在でもありません。キリスト教の神は全知全能ですが、そのような、似たような存在は仏教では仏です。

「さあ下りるんですよ。」青年は男の子の手をひきだんだん向こうの出口の方へ歩き出しました。
「じゃさようなら。」女の子がふりかえって二人に云いました。
「さようなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらえて怒ったようにぶっきり棒に云いました。

P254、4行目

ジョバンニとカムパネルラの二人になります。
二人でどこまでも行こう、あのさそりのように皆の幸いの為なら自分の身体なんか100偏焼いてもかまわない。
でも本当の幸いとはなんだろう。
僕たちしっかりやろうね。とジョバンニは言い、カムパネルラも同意します。

汽車はサザンクロスを過ぎて、石炭袋に差し掛かります。

「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」

P256、2行目

射手座とさそり座の傍にある黒い場所。そうです、これが先ごろ撮影に成功してニュースになり、話題になったブラックホール。いて座A*がある銀河の中心です。

「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」

P256、7行目

と言いながらカムパネルラが指さしている方を見ても、ジョバンニには見えず、二本の電信柱が肩を組むように立っている光景が見えて、「僕たち一緒に行こうね」と振り返るとそこにはカムパネルラはいませんでした。


今回はここまでです。
これで銀河の旅は終わりです。
次は、地上に戻ったところから物語の完結まで。
できれば、まとめも書ければいいかなと、思っています。

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