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言葉食堂で言葉丼を
諸々の用事を済ませた土曜日の午後、床に転がり、何もしないという至福の時間を満喫していたが、上司からの電話であっけなく現実に引き戻された。
できたら明日、出勤してくれないかという、申し訳なさそうな上司の声。
日曜日に予定は無い。予定は無いが、丸一日ぽっかり空いた自由時間を満喫するつもりだった。
急な招集だから無理しなくていいと上司は言ってくれたが、私は休みたいという意思を飲み込み、「出れます」と言ってしまった。スマホをテーブルに置いて、もう一度夕日の当たる床でごろごろしてみる。でも気分は晴れなくて、結局玄関の扉を開いた。
近所の賑やかな商店街をとぼとぼ歩く。
あらゆるお惣菜の匂いが容赦なく食欲を刺激してくるけれど、今日は独りで夕飯を食べたくない気分で、お弁当屋さんやお惣菜屋さんを素通りした。
意思が言葉になる前の何かを、子どもの頃からたくさん抱えて生きている気がする。優柔不断、意志薄弱、気の利いたこと言えない。頭の中で自分の欠点を表現する言葉を並べる。思考と視界が暗くなってきた。
少し細い通りに出た時、ん?と思い空を見上げた。本当に暗くなってきている。スマホで時間を確認すれば、もう午後6時30分だ。そろそろ、夕飯を食べる場所を決めなくては。
「いらっしゃーい、お好きな席にどうぞー」
意を決して少しあせた藍色の暖簾をくぐり、引き戸を開いた先には、落ち着く懐かしい空間が広がっていた。数人のお客さんが静かに食事している。
2人用のテーブルに近づき、席に着く。薄い緑色のテーブルの隅には、みっしりとセットされている割り箸と、見覚えのあるミニサイズの調味料類が並んでいた。きょろきょろとメニュー表を探すが、どこにも見当たらない。
「どうもー、今日はどんな感じにしましょうか?卵が多いみたいですから、卵丼とか?洋風にオムレツ丼?」
水の入ったコップとおしぼり、満面の笑みの割烹着姿のおばちゃんが、さっと目の前に現れて少し驚く。
「あっ……あの、私初めて入ったもので、お店のシステムとか、よく分からなくて。メニュー表、ありますか?」
「あら、そうですか。ありがとうございます。気付かないで、ごめんなさいね。常連さんかと思っちゃって。この店のシステムはちょっと複雑で。メニューはあの通り、1種類なのだけど」
おばちゃんが指差した先、壁掛け時計の隣には、”言葉丼750円”と達筆に記された白い紙が貼ってあった。
たしか暖簾には”言葉食堂”と書いてあった。どういう丼なのか、ここはどういう食堂なのか、まったくイメージできない。
「ここの板前さんは、ちょっと変わった方で。お客さんが心に持ってる言葉になる前の種や卵をメイン材料として使って、創作丼を作るの。言葉は言葉になる前に、心の中で卵や植物の種みたいな形になってるんですよ。私と板前さんは、それを見て触れるんです。それを預かって、美味しい丼にして、提供する。まぁ簡単に言うと、お客さんが持ち込んだ材料で、板前が創作料理を作るってスタイルです」
ぽかーんとしたまま、おばちゃんの説明を聞いた。やっぱり、よく分からない。掲げられているメニュー表をまた確認する。言葉丼、750円。ちょっと怖いけど、もう気になって仕方ない。
苦手な癖に、好奇心を刺激されるとホラー映画とか心霊番組とか観てしまうタイプなのだ。ああ、どうしよう。750円か。750円なら、失敗してもそれほど後悔しないだろう。ああしかし、後から恐ろしいことになりやしないか。
「卵丼風言葉丼のお客様ー。おまちどぉさま。熱いので気を付けてくださいねー」
ごとり、とテーブルに置かれた丼を覗く。卵や豆腐やシイタケ、かまぼこなどが入っていて、振りかけられているネギの緑色が鮮やかだ。
丼にすでにセットされているレンゲを握り、恐る恐る1口目に挑戦する。とろりとした半熟卵と和風出汁の味。普通の美味しい卵丼だ。ご飯と一緒に食べてみる。美味しい。
3口目から普通に食べ進めるようになった。あれは、この店の定番ジョークだったのだろうか。お客さんが増えてきて、忙しそうにしているおばちゃんをまじまじ見る。
ちょうどスーツ姿のお客さんが言葉丼を注文した。おばちゃんはお客さんの胸に片手を軽く当ててから、厨房に入って行った。同じだ。私もそうされた。材料を取り出させてもらいますねーと、いたって自然に、当たり前といったように。
「どぉも~ありがとうございましたー」
会釈して引き戸をガラガラと閉める。暖簾をくぐって、夜道をしっかり歩く。安いし美味しいし、おばちゃんは朗らかだし。良いお店を発見できて気分が良い。ちょっと変なシステムだけど。また来よう。
ああそうだ。今なら言える。言える気がする。温かいものを食べて、気分が落ち着いたからだろうか。ポケットからスマホを取り出す。上司に電話をかけた。
「明日は、やっぱり休ませてもらえますか。すみません」
するりと言えた。
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