墓バー・ロータスの夏
ヒグラシも無言を貫く、蒸し暑い夏の夕方。久しぶりに会った友人の雫さんと剛さんと、一杯飲みに行こうという話になった。
最初からお店は決まっている。あの居心地のいい行きつけのバーへと、一列になって意気揚々と行進した。
「物体をマイナス300度まで下げると、電気抵抗が極限まで減る超伝導状態になるの。電気が物凄く通りやすい。つまり、コイルやスイッチといった電気回路に必要な部品を全て超伝導状態にして、一度電気を流せば、その電気が永遠に流れ続けるのよ。これが永久電流ってやつ」
物理オタクの雫さんが、今回も偶然見聞きして興奮したという物理現象について力説している。
このバーで話す時は、雫さんは大体こんな感じだ。情熱的に講義してくれるので、最初は興味が無くても、気付けば話に引き込まれてしまう。もう、剛さんも僕もグラスを置いて雫さんの話に夢中だ。
「なんと、何百万年も流れ続けるの!これ、すごくない?!」
おー!と声を出して拍手する。剛さんは、腕組みしてうんうんと頷いていた。
「宇宙空間もマイナス300度くらいって聞いたな。宇宙に飛び出したら、何でも超伝導状態になるのかぁ。俺達も?」
皆の兄貴分である剛さんが、ワクワクした様子で聞いた。僕も気になって、雫さんをじっと見る。
「どうだろうね。試してみないと分からない。今年の夏は三人で、宇宙、行ってみる?」
上を指差した雫さんに、皆が首を横に振った。チャレンジャーで好奇心旺盛な雫さんなら、本当にやりかねない。話を戻さなくては。よし。僕が。
「そう言えば、あの、磁力で動くっていうリニアモーターカーにも、超伝導物質って使われてるらしいですね。何か、磁力とも関係あるんですか?」
「良いこと聞いてくれました!そうそう。超伝導物質にはね、すごい強さの磁場もあるの」
磁場の話になり、雫さんの熱い講義が再開された。ほっとしながら、グラスに口をつける。僕たちの大好きな、澄み切った味。やっぱり美味しい。ちらりと、無口なマスターを見る。ずっとグラスを拭いていて、僕たちの話に入ってくる気配は無い。
雫さんの物理学談義が一段落した頃、マスターが氷を削り始めた。カシッ、シャッ、カシッと氷を削る音が、僕たちしかいない店中に響く。
「この店は、静かでいいな。俺は騒がしい酒場があまり好きじゃなかったが、このバーは気に入ってる。マスター、いつまでも元気でいてくれよ」
剛さんはマスターに話しかけるが、マスターは少し頷くだけ。3人で結構長く通っているが、マスターと会話らしい会話をしたことはない。本当に僕たちには無口なのだ。
しかし、すぐにグラスを出してくれるし、手を振って出迎えたり見送ったりしてくれる。時々、頷いてくれるし。歓迎はしてくれているのだと思う。
「静かなのはいいんですけど、もっとお客さんが入って欲しいですよね。墓場の近くだからか、嫌煙されてしまうのかな。こんなに良いバーなのに。大体貸し切り状態だから、もったいないなって」
「そうねー。繁盛しててくれないと、ちょっと不安になるよね。ある日いきなり、ドアに閉店しますって張り紙があったら、ショックで倒れて召されそう」
3人でうんうんと頷く。マスターは相変わらず、無言で氷を削っている。マスターの手元を見れば、キューブ状の氷が丸い氷に見事に変化していた。
その時、ドアベルが鳴った。全員同時にドアを見る。やった。お客さんだ。
「1人なんですが、お店、まだやってますか?」
「はい。やってますよ。カウンターへどうぞ。ずっと閑古鳥が鳴いていたので、助かります」
「ははは、では、お邪魔します」
ふーっと、息をつきながらカウンター席に座り、ネクタイを緩める。店の中は涼しくて、天国だ。目の前に、氷と水が入ったグラスが置かれた。少し頭を下げて、一気にその水を飲む。
「……っぷは。ああ、生き返りました。ずっと歩いていて、蒸し暑さに参ってしまって」
「大変でしたでしょう。最近は日が暮れても暑いですからね」
「たまたま、このお店を見つけまして。なんというか、独特な場所だから、まさかバーがあるなんてって驚きましたよ。外の小さい立て看板に、お化けや妖怪の類も歓迎って書いてあって、面白いなって。衝動的に入っちゃいました。Barロータスって名前も、素敵ですね。蓮の花、極楽浄土ってことかぁって」
「それはそれは、ありがとうございます。ふふ、看板のあれは、ほんの遊び心でして。まさか本当に来るとは思わず。墓場の近くだからでしょうか」
「え?」
「いえいえ、冗談です。人間のお客様しか、来られませんよ」
マスターは微笑みながら、後ろを向いた。
ちょっとゾクッとして、店中を見回す。誰もいない。カウンター席を見ると、3つ、水の入ったグラスが置いてあった。さっき、マスターはお客さんがいなかったと言ったはず。
「はい、冷やしたお手拭きとメニューです。ゆっくりお選びください」
上品な老紳士のマスターの声に、ほっとする。まぁ、万が一、本物がいたとしても、静かに飲んでるだけならばいいじゃないか。そういうお化けや妖怪なら、飲み友達になってみたいし。
そう思って、メニュー表を開いた。
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