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紙の神のまにまに

江戸の長屋に住む男が一人、病床に伏していた。古い畳のカビ臭さが白檀びゃくだんのような良い香りに変わり、目を閉じているのに視界が白くなってきた男は「とうとうお迎えか」とぼんやり思っていた。

しばらくすると遠くから人影が近づいてきた。目が覚めるような美しい女であった。一目で上等なものと分かる白い着物と羽衣をまとい、背中に折り鶴の羽のようなものを生やしている。

男が見惚れている間に女は目の前に来ていた。女と目線の高さが同じであることに気付いた男は首をかしげた。もはや寝たきりの自分が何の苦痛もなく立っていたからである。

「あなた、これから死にます」

女の第一声に男の心臓が跳ねた。「あなた」なんて呼ばれて、若い頃に離縁した妻を思い出したのだった。「俺は悪い夫だったものなぁ。罰として死神が来たのだろう」と思った男は吐き捨てるように言った。

「……言われなくても分かってらぁ」

じっと見つめてくる女の顔に妻を重ねた男は、今までの人生を振り返っていた。大酒飲みで博打好き、ろくに家にも帰らなかった男に妻は離縁状を書き置き、一人娘を連れて出ていった。その後、男は博打を止めて長屋で独り細々と暮らしてきた。しかしどうにも酒だけは止められず、長屋の仲間たちと時々深酒をしては後悔する日々だった。

「私は紙を司る女神、川上御前。あなたに褒美を与えるようにと天界から遣わされました。さぁ、こちらを。死後に残したい言葉をお書きください」

川上御前は一枚の白い短冊を差し出した。受け取った男は短冊を眺め回し、また首をかしげた。

「こんな紙切れが褒美かい。辞世の句でも読めってか」

「人間は浮き世に流れ流れて身一つとなり、やがてその身体さえ失う定め。残せるものは記憶だけ。時間という大海を漂う思い出を運ぶ舟は、言葉だけなのです。だからこそ、これは良い人間にだけ与えられる褒美なのですよ。短冊には何をどう書いても構いませんが、言葉が書かれた短冊は天界の神木に結ばれて永遠に残りますのでご注意を」

墨をたっぷり含んだ筆も渡された男は、座り込んで考えた。長く考えた末に、短冊も筆も放り投げた。

「誰も幸せにできなかった。俺は悪人だよ。きっと言葉を残す資格もねぇのよ」

「……少し下界の様子を見てみますか?」

川上御前がふぅっと息を吹くと、男の足元の濃い霧に穴が開いた。覗くと、横たわる男を取り囲む長屋の友人たちの姿が見えた。男の手足や顔に触れながら、顔をくちゃくちゃにして泣いている。男は呆然とした。

「あの人たちに残す言葉、と考えてみては?」

涙と鼻水を袖で拭いながら、男は一気に書き上げた。短冊と筆を差し出すと川上御前はうやうやしく受け取り、折り鶴の羽を広げて飛び立った。同時に男の意識も遠のいていった。


男が丁重に埋葬されてから四十九日後、長屋の友人たちに差出人不明の短い手紙が届いた。「ありがとさん。どうか幸せに」とだけ書かれていたそうだ。

(1185文字)



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