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無い壁からエンターティナー

子供の頃に覚えた、周囲の人を笑わせる快感。こらえ切れず、心から発せられる笑い声に、俺は魅了された。

もっと多くの人を笑わせてみたくて、芸人になった。それなのに。

夕方と夜の間。多くの人が行き交う駅の前の広場。時計台の下のベンチに座り、今日も恐ろしいほどにスベッた事実に打ちのめされる。混じりっ気の無い沈黙が本当に怖くなった。途中で舞台を放棄したくなったくらいだ。

脇のキャリーケースを見る。たくさん用意した手作りの衣装が詰まっている。

相方に見限られるほど、何回も台本を書き直して作り込んだコント。自信作だった。それでも、あの狭い会場のお客さん1人さえ、笑わせられない。

他人を笑わせられない自分は、何のために在るのだろう。もう、ずっと、狭い部屋の中でじっとしていたい。

横から聞こえてくる、楽しそうな複数の女性の声。待ち合わせしていた友人と会えたようだ。故郷の友人とも疎遠になった。今、友人はいないに等しい。

帰ろう。

寂しさと惨めさで足が動かなくなる前に。いっそ、本当の独りぼっちに。あの狭いアパートで、じっとしていよう。

立ち上がって、キャリーケースの持ち手に手をかける。よし、と帰路に踏み出そうとした。

ゴンッと額に重い衝撃。

額を右手で抑えて呻く。左手で、目の前を探った。壁らしき感触。しかし、駅前の景色はそのまま。壁など、一切見えない。

透明な壁にぶつかった?じんじんと痛む額。

まさか、在り得ない。そう思いながら、壁を避けるように横に移動する。

ゴンッ。

再び額から鈍い音がして、両手で額を抑えながらしゃがみこむ。目を閉じたまま両手で前方を確かめれば、また壁。目を開ければ、壁は無く。

嫌な予感がして、立ち上がり、自分の四方を確認する。3メートル四方の空間に、閉じ込められている。予感は的中。

焦って、何とか出られないかと四方の壁を探る。忙しなく通り過ぎる通行人たちからの視線が痛い。何人か足を止めて、スマホを俺に向け始めた。

「すごーい、パントマイムだ」

パントマイム。ああ、そうとしか見えないだろう。しかし、こっちは絶対絶命だ。

「助けて!本当に、閉じ込められてるんです!」

壁の向こうの観客たちに叫んだ。いまいち危機感が伝わっていない雰囲気だが、1人の若い男性が手を伸ばしてくれた。その手をすぐに取る。あれ。2人で首を傾げる。

「あの、引っ張ってくれますか」

男性が、私を透明な壁の外へと引っ張る。ほっとしかけた瞬間、繋いだ手の部分が引っかかり、2人でつんのめった。男性は壁の外。また、2人で首を傾げる。

「あはははっ!」

久しぶりに観客から向けられた、心からの笑い声にハッとする。観客の顔を見渡す。ずっと見たかった、健やかな笑顔。パントマイムコント。これだ。

透明な壁を使って、様々なポーズをとる。助けを呼ぶ囚人の、切実な演技。どっと笑いが起きた。幸いにも壁の中にあったキャリーケースから、パンダの被り物を取り出す。それを使って、気怠げな動物園のパンダになりきって。

どんどん、笑い声は大きくなった。嬉し涙が滲みだした時、いきなり壁は消え、また前に大きくつんのめった。笑い声が、一段と大きくなった。


「あの、すみません」

にやける顔を必死に隠しながら、キャリケースを引き摺って帰ろうとした時、あの若い男性が話しかけて来た。

そうだ、お礼を言わなければ。

「あ、お騒がせして、すみませんでした。こんな予定じゃ、なかったんだけど。あなたは、恩人です。本当に、ありがとうございました」

深くお辞儀をする。

「あ、いえ、そんな。実は、僕、芸人を目指してて。あなたのパフォーマンスを見てて、これだって、思って。もし、よろしければ、相方にしてくれませんか」

思わず、にやけた。


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水月suigetu
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