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YouTuberが破った常識の壁の穴を覗いたら、鮨職人と海原雄山を思い出した話。

いまでは思い立ったら誰でもYouTuberになれる。チャンネル登録数も企業アカウントの比でないほど持っている学生もいたりするし、YouTubeで流したことで世界ブレイクすることだってある。目の前のことが面白ければすぐ撮影すればいいし、アプリも豊富に揃っているので、スマホ一つで気の向くまま編集ができる。スマホはもう電話をするためのものではない。確実にYouTubeというプラットフォームが、映像制作の常識の壁を壊してくれた感じがある。


noteもそうだ。今まではライターや作家という職業につき、採用されてはじめて文章にお金をもらえたが、いまでは無料か有料か気分で選び自分で金額をつけることができる。別にすごい情報を出すことが求められてはいないし、むしろお金のために、依頼されて書いているものを嫌悪する風潮もある気がする。InstagramやTwitterの投稿はPRの文章がすぐ流れてくるし、今やPRと思われない自然な(稚拙なほど自然に見えるからかそれをまた模倣してプロが作っているような)ものが溢れている。虚構の世界を見ているような気分になるし、それに乗っかってしまう自分もいて歯痒くもあるんだけど。

昔、友達のライターが、vogueの記事を書けたらこの仕事をやめてもいい、と言っていた。ページ単価が高いのもあるけど、ブランドの記事を書くのはそれなりの文章スキルはもちろん、打ち合わせや展示会での普段の立ち回りも影響するのだと、自分が選ぶ服でさえも気を使っていた。メイクもナチュラル系から一点ブルベのモード系になり、なんとなく喋り方も余裕が生まれた。変わり身の速さはライターやクリエイター界隈ではあまり珍しいことではないが、彼女の仕事に対する姿勢は好きだった。彼女は結局念願のVogueでの記事を書くことになり、その後は20代向け女性誌(全国紙)で連載を持ち、その取材として行ったネット合コンで医者とめでたく結婚した。もちろんその経緯も全て連載で書ききって引退したのはほんとあっぱれである。ライターの鑑。

私はライターではないけれども、いわゆる広告クリエイターと呼ばれる職である以上、仕事を受けるとクライアントのことを調べ、好きになることから始める。お客さんの目線になることから入るのでお金も使う。ファンクラブに入り、商品を使い、商品を比べ、他社を調査し、お客さんの声をきき、その商品が自分の生活の中でどういう存在かを考えることはコピーを考える前段階で必要なことだと思っている。(そのためには普段の生活を整える必要があると思っているので、しんどいけどいろいろこなしている。)

仕事に向かう=自分の全てをぶつけていくような環境で育ってきてしまったからかもしれないが、最初から簡単にできる環境があって、それを当たり前だと感じで育っている世代を見ると、すごいと思うと同時に、とても不安になってしまう。できることは多いが、やり切ることは果たしてどうなのか。ある一定のところまではうまいこといけるので、ある一定のゴールでは問題ない。だけど、厄介なのはトラブルがあったときだ。リカバリーする力は経験以外に培うことはできない。学生時代でもある程度できるけれど、社会に出るとその関わる人も、お金も、桁が違う。結果、その会社のイメージに直結することにもなりかねない。会社を辞めれば当人は離脱できるが、会社に残ったものはマイナスの負債からのスタートとなるのだ。(そんなバッドエンドも見えちゃってるので、必死になっちゃうんだよなあ。)

ただ、そういった一切の事情は、もう必要ないんだろうか。いい感じのものをいい感じで提供し、ダメならスルーされれば良いまた何か作ってそのうち当たるかな、当たらなかったらやめたらいいか、という時代なのか。ちょっとした違和感は見てみないふりをするのがセオリーなのか。
お金が発生したらその時点でプロと呼んでいいとは思うんだけど、「自分の得意と隙間時間を仕事に」みたいなサイトに頼んだというクライアントの制作物を眺めていると、正直なところもうわからなくなってしまうことがある。


たとえば、山岡士郎が私の夕飯作りを見れば、横で落胆と怒りの表情を浮かべるだろう。そういや鮨職人がタバコ吸ってるのがばれて海原雄山がキレる回があったけれど、この些細な違和感は、その道のプロはもちろんのこと、プロでなくても気づく人はちゃんと気づくと思っている。むしろプロアマ混合の作品を雑多に見ている一般の人の方が「何かの違い」にモヤッとするのではないか。そこに「このくらいでいいだろう」という思いがチラリと見えた途端、愛情が覚めることもある。一度感じた違和感は、ずっと靴の裏の小石のようにつきまとう。恋愛と一緒ね。
プロの仕事はそれをいかに見せずにいられるかだと思っているし、その部分を確実に潰していくような作業を行う。デザインでもほんの数ピクセルの余白を何十回と検証し、動画は2,3フレームの調整で行い、たった15秒や30秒のCMを編集するのに丸一日どころか数日かかることもザラであるが、ほぼその違和感の解消に費している。佐藤可士和さんの作るロゴが誰にでも作れると言われがちだが、どんな媒体に載っても違和感なく仕上がったロゴがどんな細かい調整でできているかなんて、作る人間からすると途方もない作業が入っていることはわかるし、現場の人まじですごいと思う。でもそれは誰も知らなくていいことで、誰かにとったらもうどうでもいいことなのだろう。

私たちのやっているこだわりは、そういうものなのだと割り切っていかないと、正直しんどい。使い捨ての時代に、残し続けていくものを作るのは、本当に容易いことではないのだとしみじみ感じる毎日なのである。



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広告企画室ネコノテ 矢野裕子
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