上弦の月と読書のこと
今日(5月30日)は上弦の月です。久しぶりにカラッとした暑さ、みなさんどのように過ごされましたか?
月の満ち欠けにより、満ちてくるちから・吸収するちからもだいぶ強くなりますが、なかなか上弦の月をテーマにした創作作品は少ないように思います。(下弦の月の方が創作作品に多い気がする……)
今日はなんとなく本をたくさん読みたい日でした。知識を吸収したがっている私のからだに合わせて、少し読書のお話をしてみようと思います。
私は以前、図書館に勤めていました。
最初に通勤していた図書館で、一緒に働いていた年上の女性の同僚とよく食堂でランチをしていたのですが、彼女とデザインや絵、読書のことを出勤日のランチにはいつも話していた記憶があります。
「私ね、自分と年齢が近い女性作家さんの本を読むのが時々切なくて苦しくなるの」
と彼女が言っていました。
なんでも、自分のしてきた経験と近いことをその作家さんが文章にしているということで、「自分」というものを生々しくつきつけられてしまうような体験に陥るそうです。
そのころはあまりわかりませんでしたが、今なら私もよくわかりますし、私にとって読書とはそうあるものなのかもと思うようになってきました。
年齢に関係なく、尊敬する女性作家さんの詩・俳句・短歌・小説などを読むと、彼女たちの世界に入り込んでしまって、日常に帰ってくるまでに時間がかかってしまうんです。
もともと、ことばを発信する、さらけだすというのは、そういった自分の「生々しさ」を他の人に見せることだと思うんです。
だからこそ、「見てしまった」自分の心の土壌が豊かになっていくし、私が書くとすれば、自分の発信することばはそういうものでありたいと思っています。
文学は英語のliteratureの日本語訳ですが、適する日本語がそれしかなくて、「文学」として根づいているように感じるんです。紙に書かれたインクだけではありません。もともとliteratureは、すべての芸術の事象について、すべての生活の事象において使われる単語でした。
だからこそ、文学って面白いんです。
今私はこの季節にアジサイをリビングで育てているのですが、アジサイの根が苔玉に生えているのを見ると、この苔玉を栄養豊かにしたいという思いが出てきます。
これは、苔玉という土壌というものが心そのものを表していて、アジサイの色づきに私の心も反映されていくのかな、なんて。
毎日色づいてゆく様子がかわいくてかわいくて仕方ないのですが、この子にも自分にも、適度な水をやるように、成長していきたいと思います。