2022年11月公開新作映画感想まとめ

すずめの戸締まり

 本作の監督である新海誠の直近の作品『君のは。』と『天気の子』は非常に似通った物語構造を有しており、ともに「囚われのヒロインを助けに行く主人公」、「災害」、「思春期の異性への憧憬」という三要素が作品の柱となっていた。本作『すずめの戸締まり』も1番目の要素である『囚われのヒロイン』という童話的構造がしっかりと堅持されていることから、『君の名は。』から連なる作品の系譜上にあると言えるだろう。ただ、本作が前2作と大きく一線を画しているのは、前2作が根底に確実にイメージソースとして持ちながらも、「隕石」や「豪雨」などで微妙に直接的な言及を避けていた「東日本大震災」に真正面から切り込んだところにある。また、「思春期の異性への憧憬」も物語のアクセントとして取り込まれてはいるものの、本作では物語の中核には据えられていないことも本作をこれまでの新海作品とは少し違う立ち位置に置いている。


 ヒロインの鈴芽は幼少期に東日本大震災に被災して母親を亡くし、叔母と九州へと引っ越してくる。そんな彼女が「閉じ師」と呼ばれる青年と、全国各地にある災厄(本作では特に地震)をもたらす扉を閉めていきながら、生まれ故郷の東北へ旅をしていく。本作の物語構造は所謂「行って帰る」話であり、この物理的な旅を通してヒロインの鈴芽が心の奥底で蓋をしていた母親を亡くした悲しみに近づいていく物語となっている。この旅という通過儀礼を通して、過去の傷から立ち直り再生するというのがオーソドックスな「行って帰る」物語であるが、本作の特異な点はこの旅を通して、自身が過去の深い心の傷をすでに乗り越え再生してきたことに気付くという物語になっている点である。クライマックスにて、鈴芽は被災当時の過去の自分と出会い、亡き母を探して泣きじゃくる過去の自分に、この先の人生に明るい未来があることを告げ励ます。これが本作の最も重要な点で、このクライマックスを通して、本作は鈴芽と同い年くらいのまさに震災を経験してきた子供たち、そして、彼ら彼女らを支えてきた周りの大人たちのこの11年間を称え慈しむ物語となっているのである。震災の辛い現実を踏まえつつも、未来へのポジティブなメッセージを強く打ち出す本作は、震災から10年近い時間が経過した今だからこそ出来る物語であり、また、図らずもコロナ禍という新しい災害に直面する今を生きる子供たちへのエールともなっている。


 一般的なエンターテインメントの尺度で考えると、本作は主人公の鈴芽を冒険の旅に駆り立てるモチベーションとなるバックグラウンドの描写がかなり淡白であるように思われる。また、作品の中盤で戸締まりに失敗し、大きな人的被害を出すことで主人公が挫折するターンがあるのが、一般的な映画のセオリーであろう。ただ、本作は震災がテーマである以上、こういった描写は全く必要がない。あの311を日本で体験した人間にとっては、冒頭で描写される屋根に乗り上げた大型船だけで、鈴芽が死を恐れない理由も、”ミミズ”が東京に落下したときに何が起きるのかも全てが手にとるように分かるからである。そういった意味では、東日本大震災がすでに教科書のうえの出来事になっているであろう今の10代前半の子供たちにとっては、いま一歩差し迫るものが不足した作品となっているのかもしれないし、10年後にはまた作品の印象が変わっている可能性もある。そういった意味でも、震災から約10年という”今”の時勢を強く焼き付けた作品となっていると言えるだろう。


 前述の通り、本作は被災児童であった鈴芽がその後の人生で、母を亡くした心の傷から知らず知らずのうちに再起していたことを認識する物語であると考える。そうであった場合、このラストに至るためには、彼女が震災後の約10年でどのような人生を生きてきたのかの描写が必要なのだが、本作ではこの点に関しては叔母である環との関係に集約されている。鈴芽と環の関係の描写については非常に濃密で、彼女たち2人が仲睦まじく暮らしながらも、お互いが微妙に踏み込み合えないギクシャクした関係であったことが丁寧に描写される。ただ、鈴芽が被災によって受けた傷から再生していく過程では、友人や近所の人たちとの繋がりもきっとあったはずで、そういったものも全て観客ひとりひとりの東日本大震災の思い出に仮託してオミットしているのは、作劇的に少し不満を感じるところである。ただ、本作はその分の尺で、ロードムービーとして日本の様々な街での市井の人々の日常の描写を積み上げており、これによって、津波に押し流されてしまった東北の街にも何気ない日常が数え切れないほどあったことを描いており、この点は高く評価すべき点であるため、作品バランス的には仕方ないのかなとも思うところだ。


 2011年の東日本大震災から約10年が経ち、ある意味、あの頃の焦燥や痛みをある程度離れた位置から俯瞰できる時代に到達したと言えるだろう。この今だからこそ、あの震災によって日本人の死生観が大きく変わったポスト東日本大震災の時代を自分たちが生きてきたのだということを、本作は強く気付かせる作品となっている。当時、直接的に被災したわけではない人間からすると、この作品があの震災を生き延びて、今に至るまで生きてきた子供たちへのエールになることを願うばかりである。


ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー

 2020年8月、MCUにおいてブラックパンサー/ティ・チャラを演じたチャドウィック・ボーズマンが癌によって亡くなったことが報じられた。複数の作品が複雑に絡み合いクロスオーバーしていくMCUにおいて、ティ・チャラは今後も活躍していく重要なキャラクターとして想定されていたと思われる。本作も当初はチャドウィック・ボーズマン主演として、脚本がかなりのところまで完成していたとのことで、彼の急逝はあまりにも想定外のことであった。これに対し、本作は、代役を立てることなくティ・チャラを故人として設定し、亡き兄の跡を継ぎ、妹であるシュリがワカンダ王国の王を継承していく姿を描く方向へ舵を切った。本作の主人公であるシュリは、これまでのMCUにおいてはあくまでブラックパンサーのサイドキックの1人に過ぎなかった。これまでの作品の流れからすれば、次期ブラックパンサーの役割は、彼女にとっては物語的にもシリーズ的にも分不相応に重すぎるものである。そのため、本作は、これまでのシリーズを応援してきたファンが十二分に納得出来る形で、生真面目とも言えるほど誠実なアプローチで、彼女を次期ブラックパンサーへ据えるための作品となっている。


 本作の白眉はチャドウィック・ボーズマンの死という現実世界での痛ましい出来事を、巧みにMCUの物語世界へとトレースしている点である。主演俳優の急逝という制作上の混乱は、偉大な王の急逝によるワカンダ王国の外交問題の波瀾へと、急な形での主演の交代は、戦時下に不完全な形で行われるブラックパンサーの継承の儀式へと実に巧妙に読み替えられている。本作では亡き王ティ・チャラを悼む人々を描くことで彼の偉大さをポジティブに描く一方、彼の実直さがゆえに彼の死後に生じるワカンダの国際問題というティ・チャラのネガティブな側面も描かれる。そして、彼の行動によって生じてしまった外交上のトラブルを描くことにより間接的に、国際的に非常に難しい立場にあるワカンダ王国の外交的均衡を、ティ・チャラが絶妙なバランスに保っていたことを浮かび上がらせている。作中での直接的なティ・チャラへの描写や言及は最小限に抑えられているにも関わらず、彼の死後のワカンダを精緻に描くことにより、ティ・チャラという存在があまりにも大きかったことをこれでもかと映し出しており、それを通して、彼を演じたチャドウィック・ボーズマンという俳優の絶大なるカリスマ性をも描き出している。次期王として育てられ、数々の経験を通してブラックパンサーの座を継承したティ・チャラ。MCUという枠組みで言えば、『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』での先行登場を経たうえで、満を持して『ブラックパンサー』で主役としてMCUに参入してきたティ・チャラ。そんな彼の王としての門出は、『ブラックパンサー』のラストにおいて、ビターながらも明るい未来を想起させるものとして描かれた。これに対し、物語上でも、そして、メタ的にも急ごしらえの王として立ち上がったシュリの門出はどこまでも苛烈で静謐だ。


 チャドウィック・ボーズマンの死を受けて、大きく方向が転換した本作。ティ・チャラの生前の映像をふんだんに使用し、いくらでもお涙頂戴の作品に仕上げられたであろう作品だが、本作は彼自身を直接的に描くのではなく、彼の急逝によって空いた大きな穴、そして、それによって生じたヒビや綻びを丹念に拾い上げるような作品となっている。その穴をつぶさに映し出すごとにより、ティ・チャラが、そして、チャドウィック・ボーズマンがこんなにも大きな存在であったのかと驚きとともに再認識させられる。本作は高いエンターテインメント性を有しながらも、故人へのこのうえなく上品で誠実な追悼映画として仕上げられている。


ドント・ウォーリー・ダーリン

 今自分がいる世界は仮想現実で、なんとかしてここから現実世界に逃げ出さなければ、というのが本作の物語構造の根幹だが、世代的にはやはり『マトリックス(1999)』が連想される。個人的には、閉鎖された町からの脱出という点では『ビバリウム(2019)』、町ぐるみで主人公を騙そうとしてくる感じは『ワンダヴィジョン(2021)』なども想起される。ということはつまり、設定的にはなんとなくどこかで観たような作品というわけで、となると演出で恐怖感や違和感をどれだけ醸し出せるかというのが勝負の作品ということになる。


 本作に関しては劇伴が非常によく、特に作中で多用される女性コーラスの入ったBGMは若干露骨ではあるものの、世界の禁忌に触れてしまった緊迫感を豊かに醸成している。ほどよく作り物感のある衣装やセットなどの作品の雰囲気作りも良く、扇情的でありながら不気味なバレエのシークエンスも作品の空気感にマッチしている。また、分かりやすいビックリ箱的なホラーシーンがほとんどなく、それとなく違和感を想起させるようなシーンを積み重ねることで、主人公のアリスが精神的に追い詰められる過程を説得力を持って描いている点も良い。一方で、前述の通り、そんなに真新しいギミックのある作品ではないので、アリスが立ち入り禁止区域から戻ってきたあたりからは、どうしても観る側としては「種明かしまだかな?」モードになってしまうため、終盤の真相が明かされるまでが冗長に感じてしまう。


 こういったSF色の強い作品の場合、作中の謎が種明かしされてしまうと、どうしても急に白けてしまうというのが世の常である。理由は色々あろうが、個人的には謎を明かすことによって、作品のリアリティラインが大きくずれてしまうというのが大きな原因の一つであると考えている。少しジャンルが違うが、『新世紀エヴァンゲリオン』で「人類補完計画」の概要が明かされたときの、「何を言ってるんですか?」となる感覚が近い。しかし、本作の場合、アリスを仮想現実に閉じ込めた黒幕の一人であるアリスの夫・ジャックの動機は、そういった高度にSF的なものではなく、非常に幼稚なマッチョイズムである。仕事で成功してバンバン稼ぎ、家に帰ればいつも着飾った妻が料理を作って迎えてくれる、さらにはしたいときにはSEX仕放題。そんな生活が理想なのに、現実は自分にはろくに仕事がなく、妻が忙しく働いて稼いでいる。そんなの許せない!という非常にしょうもなく身勝手ながら、そんなに珍しくもない有害な男性性によって、ジャックはアリスを仮想現実に押し込めてしまう。こういった嫌に現実味のあるジャックの動機が語られることにより、現実世界で高度にSF的な仮想現実移送マシンが登場しても、観客の関心がそこにあまり行かず、アリスとジャックの関係性のサスペンスに目が向く。そのため、本作では作品全体を貫く謎が明かされても、作品のリアリティラインのズレがさほど気にならず、テンションが落ちないのである。そして、種明かしを経て、派手なカーチェイスになだれ込み、そのままラストまで駆け抜ける。終盤の観客の心理のマネージメントが非常に上手く行っている作品と言えるだろう。個人的には種明かしまでのペースをもう少し早めたうえで、ラストのもう少し先まで描いてほしかったなと思うところだ。


ある男

 事故により夫の大祐を亡くした妻の里枝は、彼が「大祐」になりすました全くの別人であったことを知る。里枝は夫の正体を明らかにするために、弁護士の城戸に身辺調査を依頼する。


 里枝と大祐の夫婦を巡るミステリーのような形で物語が始まるものの、物語の構造は比較的あっさりしており、そこまで複雑な物語ではない。むしろ本作はミステリーと言うより、主人公である弁護士の城戸を中心としたヒューマン・ドラマであるため、彼や里枝の苦悩や葛藤が主に描かれている。社会的に成功し、何不自由ない生活を送りながらも、在日韓国人がゆえに日常的に差別を受けている城戸が、「大祐」を名乗っていた謎の男の真相に近づくほどに彼のバックボーンに共鳴し、のめり込んでいく様がつぶさに描かれる。


 人種や親といった生まれの肩書でとかく人を判断する世の中の風潮に対し、どう向き合うかというテーマを城戸と「大祐」を名乗っていた男を重ね合わせながら論じる本作。城戸と里枝が最終的に対象的な着地に落ち着くところが本作の強く興味を惹く部分だ。里枝とその息子・悠人はラストで「大祐」の正体を知り、それでも彼の人柄と彼と生きた日々こそが大事だという結論に達する一方で、城戸は自身の人生を投げ出したいという願望に駆られる。本作のラストはかなり解釈の余地を残すものであるが、私は、氏より育ちだというのが理想的な考え方だというのは肯定しつつも、実際に差別を受ける当事者からすれば、そうは言ってもそんなことは綺麗事なのだというかなりドライなメッセージであると受け取った。


 手練揃いのキャストで演技アンサンブルが実に見ごたえのある本作だが、個人的には特に城戸を演じる主演の妻夫木聡と、物語の鍵を握る収監された詐欺師・小三浦を演じる柄本明の演技が特に印象に残った。妻夫木聡は義両親や小三浦、依頼人からの差別発言を笑顔でやり過ごすシーンが印象的で、怒りを笑みで表現する演技力が素晴らしい。あの笑顔一つで、今までの人生の数え切れないほどの場面で同じような辛酸を嘗め続けてきたことを、そして、それに対しての強い諦観を持っていることを表現している。また、柄本明演じる小三浦の人を食ったような姿は、人間の一番汚い部分をズケズケと見せつけるような迫真の演技で物語の強い推進力となっている。


ザリガニの鳴くところ

 1969年、ノースカロライナの湿地帯で裕福な家の青年チェイス・アンドリュースの変死体が発見される。この事件の犯人として勾留されることとなったのは、この湿地帯に一人で暮らす女性・カイア。両親に捨てられ、湿地帯で一人孤児として生きてきた彼女の人生が少しずつ紐解かれていく。


 チェイスの死は事故死だったのか、殺人によるものだったのかというミステリー。そして、陪審員を務める町の人々から奇異な目で見られる女性・カイアが、無実を勝ち取ることができるのかという法廷劇が本作の物語の縦軸である。ただ、全体として見ると、そういったミステリーやサスペンスの要素よりも、類まれなる才能を持ったサイエンス・イラストレーターであるカイアの人格がいかに形成されていったのかという伝記映画的な要素の方が強い(フィクションに対して、伝記的という表現は適切ではないかもしれないが)。学校に通うことができずに文字も読めなかったカイアが、幼馴染のテイトから読み書きを教わり、徐々に生物学にのめり込んでいく姿が瑞々しく描かれている。近年で言うと『アンモナイトの目覚め』などが感覚的に近いのだが、一つの道に没頭する職人を描く映画というのが世の中には一定数存在しており、そういった映画でしか味わえない心地よさというものがある。本作もその系譜にある映画で、美しい湿地帯の自然の光景、その自然の観察と探求に没頭しイラストを描き溜めるカイアの姿、そして、劇中で多数登場するカイアが描く湿地帯の動物たちの美麗なイラストが合わさることで、物事を学び極めることの奥深さや楽しさを味わうことができる。


 本作は現在のカイアを巡る法廷劇と、カイアの半生を描く回想が並行して描かれる。カイアは、担当弁護士のトムの尽力とは裏腹に、彼の弁護にさほど協力的ではなく、さりとて、罪状は認めていないという掴みどころのないキャラクターとして劇中に登場する。登場してしばらくは観客も、彼女を取り巻く町の人と同じように、彼女を得体の知れない謎の女性として見てしまうこととなる。しかし、前述の彼女の湿地帯の自然への探究心と、彼女が置かれた過酷な半生が丁寧に描かれることにより、最終的には劇中で”世捨て人”とも称される彼女の特異な人生観や価値観の一端が理解できるようになる。それがゆえに、彼女への判決が決定するクライマックスの緊張感は非常に高く、手に汗握るものとなっている。


 というのが、ラスト1-2分前までの感想なのだが、本作は最後の最後でとんでもないどんでん返しが用意されている。このラストのどんでん返しは、これまでの話を全て台無しにしてしまうようなものであり、「ここまで観てきたものって、なんだったんだよ!」と言いたくなってしまう。だが一方で、自然の中で一人孤独に生き抜いてきたカイアが、その結果、人の理からは外れた野生の境地に達していたことを、観客の胸ぐらにグイと突きつけるラストにもなっており味わい深くもある。個人的には主に結論まわりで賛も否もある作品なのだが、カイアという一人の天才イラストレーターの人となりを深く描けていることと、主演のデイジー・エドガー=ジョーンズの稀有な透明感を加味して、ギリギリのところで賛に振れる作品と言いたい。


母性

 母親に対して異常な愛情と執着を見せる女性・ルミ子と、そんなルミ子からの愛情を渇望する娘・清佳の親子関係の変遷を2人の視点から描く作品。


 主人公のルミ子は実母に対して異常なほどに愛情を抱いた人物で、彼女の行動指針は母親に喜んでもらうこと、気に入ってもらうことである。そのため、娘の清佳に対しての愛情は乏しく、娘すらも母親に喜んでもらうためのピースの一つに過ぎないという、相当に狂った人物だ。このキャラクターをどれだけ血が通った人物として描けるかというのが、本作の一つの勝負どころなのだが、これに関しては演じる戸田恵梨香の熱演も相まって非常に成功していると言える。エキセントリックな人間性がゆえに容易にステレオタイプな方向へ転びかねないキャラクターなのだが、作中のルミ子は実在感と奥行きのある人物として描写されている。特に良いと感じるのは、母親への畏敬の念から派生した過剰なまでの規範的意識を、ルミ子が娘の清佳にナチュラルに押し付ける場面が作中に散りばめられている点である。この描写の積み重ねにより、訳が分からないけれども、訳が分からないなりにその人の中では筋が通っているように見える、現実味のある異常者にルミ子が仕上がっている。また、そんなルミ子に虐げられる側である清佳も彼女は彼女で、規範的意識が強すぎるうえに、それを人へ押し付けることに一切抵抗がないという異常者として育っており、母と娘のどちらも絶対的に正しい存在としては描かない作劇にも好感が持てる。本作では、このようにしっかりと肉付けがされた人間性の主人公二人に、高畑淳子演じるさらに強烈なルミ子の義母も参戦して、彼女ら3人の演技アンサンブルにより、家庭不和をこれでもかこれでもかと見せてくれる。このギスギスを観られただけでも鑑賞代のもとは取れたというものである。


 一方、脚本にはかなり不満が残る作品でもある本作。本作の結論はラストで清佳がほぼほぼ台詞で説明していて、母性は後天的に習得するものであり、女性の中にはそれを習得できず、いつまでも母親の娘であり続けたいと願う人がいるというものである。これを清佳は「世の中の女性は母と娘の2つ」と表現しており、後者であったルミ子がラストのある事件により前者へと変容するというのが本作の肝なのだが、そもそもこの主張が非常に飲み込みづらい。母性は生得的に全ての女性に備わっているものではないという主張の前半部分は十二分に納得のできるものである。一方で、「いつまでも娘でいたい女性」の例として作中で提示される人物が、登場数分後から終盤まで徹頭徹尾狂人のルミ子であるため、どうしても、「女性は2つに分けられ、母親になれる女性と娘のままでいたい女性がいるのだ」という主張に対しては、「いや〜、お宅のお母さんがレアケースだっただけだと思いますよ……」と思わざるを得ないのである。また、母と娘の2人の視点で物語が描かれるというのが本作のウリの一つなのだが、正直、ルミ子目線のパートの時点ですでにルミ子の異常性がバンバンにほとばしっているため、清佳パートでの描写の意外性が特になく、さらに中盤からはこの2つが混合されてしまうため、二者の視点で描くうまみがあまりない。さらに、本作の倒叙的な構成も、正直、倒叙型ミステリーっぽくしたい以上の作品上の意味がないのも気になるところ。


 ストーリーについては、正直ちょこちょこ首を傾げたくなる本作だが、実力派俳優たちの演技合戦により家庭のギスギスをお腹いっぱいに堪能できるという点では興味深い一本だと言えよう。

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