2022年1月公開新作映画感想まとめ
ハウス・オブ・グッチ
貧しい輸送会社の娘であるパトリツィア・レッジャーニと、世界的ファッションブランド「GUCCI」創業者の孫であるマウリツィオ・グッチの結婚から始まる、グッチ一族凋落の実話を題材にしたサスペンス映画。お坊ちゃま気質の抜けないGUCCI経営者のマウリツィオ、人一倍野心が強いが教養のない妻のパトリツィア、芸術家気取りでお子様な従兄弟のパオロ、という企業経営という観点において、どうにもパッとしない3人のいざこざによって、グッチ一族がジワジワと転落していく様が粛々と描かれる。グッチ家の人間それぞれのエゴや悪意が少しずつ積み重なっていくことにより、最終的に一族がボロボロになっていく過程がじっくりと描かれており見応えのある作品。物語を大きく引っ掻き回し、牽引する主人公のパトリツィアさえ、悲劇の一要因でしかないという描き方が実にフェアだ。
ただ、全体として平板で盛り上がりを欠く作品であることも否定し難いところ。特にマウリツィオとの離婚が決定的になり、主人公のパトリツィアが作品上から一時的にいなくなる終盤は、ストーリーを牽引するマウリツィオがそこまで個性の強いキャラクターでないのもあり、物語の推進力が急激に弱まってしまう。上映時間約2時間半のところを2時間に収めるくらいのもう少しタイトな構成にしておいた方が、テンポが良くなってダレなかったのではないかと思うところだ。
個人的にはマウリツィオの従兄弟のパオロ・グッチを演じるジャレッド・レトの演技が印象的だった。見た瞬間に誰しもが「コイツはダメだ」と直感できる、気の抜けたような高い声でヘラヘラと喋る姿が印象的で、"大人になれなかったおじさん"を見事に表現している。ぎりぎりコメディにならない絶妙なバランスの演技により、笑えるけれど嫌な実在感があり、悲しくなるほど哀れな中年男性像に心地よく胸が痛む。
スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム【ネタバレあり】
MCU版スパイダーマンの(おそらく)完結編にして、これまでの実写スパイダーマンシリーズのクロスオーバーによる大ボリュームのお祭り映画作品。本作の見所は何をおいても、トビー・マグワイア、アンドリュー・ガーフィールド、トム・ホランドの歴代スパイダーマンの揃い踏みだ。グリーンゴブリンやドック・オクといった歴代キャラクターの参戦は予告編等で発表されていたが、過去作のピーター・パーカーたちの登場は完全に伏せられていたため、ネッドの開いたゲートウェイからアンドリューがヌルっと現れるシーンの衝撃は凄まじかった。3人のスパイダーマンの共闘や見栄きりをしっかり見せてくれるだけでなく、歴代スパイダーマン座談会とも言うべき3人の会話シーンもたっぷりと描かれており、ファンが考えうる展開はおおよそ全て盛り込まれていて、とてつもない満足感だ。
歴代のスパイダーマンのヴィランたちの扱いも形だけの客演になっておらず、ちゃんとそれぞれの原作映画のキャラクターを大事にした描かれ方がなされていて良い。グリーンゴブリンとドック・オクについては原作映画と齟齬のないキャラ付けで描かれているし、逆にエレクトロは原作映画からはおそらく諸々の事情で容姿やキャラ付けが変更されているが、原作映画のキャラクターからの変遷が違和感のない形で丁寧に描写されている。サンドマンの行動が若干ストーリーの都合に流されているのと、リザードの影が薄い点が気になると言えば気になるが、ここに文句をつけるのは重箱の隅の突きすぎというものだろう。ピーターの行動原理を、彼らをヴィランから普通に人間に戻して救済するというところに置いているのも非常に巧い部分で、これによりヴィランたちの人間性を自然に深堀りできるようになっている。この点についてメタ的な視点で見ると、ヴィランたちの救済を通して、彼ら自身と言うよりも、ある種不完全な形でシリーズを終わってしまったことにより救われることのなかった過去作のピーターたちを救済しているとも言えるだろう。
とにかく歴代のスパイダーマンシリーズを観続けてきた人たちへの極上のファンムービーというのが第一義の本作であるが、MCUスパイダーマンの完結編としての軸もしっかりとしているところが抜け目がない。本作でピーターは、自らが招いた事態で愛する者を失い、「大いなる力には大いなる責任が伴う」という格言を受け渡されるという"スパイダーマン式通過儀礼”を遂に迎える。スターク、ハッピー、ストレンジといった大人たちの庇護下にあり、過去作と比較してもことさらに子供っぽく描かれてきたMCU版ピーターが、このイベントを経て、大人のヒーローとして世界にたった一人で投げ出されるラストはあまりに過酷でスパルタだ。しかし、この姿こそ、自身の人生や生活、将来を投げ売ってでもヒーローとして人々の為に戦うという、これまでの数々のスパイダーマンシリーズで描かれてきたスパイダーマンとしての原点の姿だ。大お祭り映画でありながら、"アベンジャーズの一人であるスパイダーマン"から"親愛なる隣人、スパイダーマン"として一歩を踏み出すまでの一本としても観られる作品に仕上がっており、実に素晴らしい。
コーダ あいのうた
主人公のルビー以外の全員が聾者の家族が、ヤングケアラーとして彼女に無意識に依存していたことを自覚し、彼女を家族の束縛から開放し自立を見送るまでを描いた作品。音大への進学を志す娘のルビーに対し、音楽を一度も聞いたことがないゆえにその価値が理解できず、通訳として自分たちの仕事を手伝い続けるように勧める両親の姿が痛々しく生々しい。この作品の肝なのが、この両親の行動が娘への愛情の欠如に起因するものではなく、聾者である家族としかコミュニケーションを取ってこなかったことによる社会への理解の欠如に起因しているところだ。マイノリティーへの支援の欠如が教育格差をも引き起こすことをありありと映し出しており、両親自体は力強くコミカルであるにも関わらず、その姿に時折ゾクッとさせられる。この非常に狭い見識で生きてきた両親が、娘の音楽の才能に気づき、その狭かった見識がパッと広がることとなる終盤の音楽発表会のシーンが本作の白眉で、非常にベタながら"これぞ映画"というある演出が実にキマっており素晴らしい。
本作のメインテーマは言うまでもなく歌なのだが、柱となる主演のエミリア・ジョーンズの歌唱力が実に素晴らしい。彼女の歌唱シーンはどれも良いのだが、特にクライマックスの"Both Sides Now"が最高で、物語を締めくくるにふさわしい高らかな歌声に胸が鷲掴みにされること請け合いだ。主人公であるルビーの歌に物語の核心を託す作品であるがゆえに、ここがイマイチだと途端に拍子抜けになってしまうのだが、エミリア・ジョーンズの歌は観客にこの物語を受け入れさせる抜群の説得力を持っており、このキャスティングは大成功であったと言えるだろう。
さがす
1本の作品の中でジャンルが二転三転しながら物語が進行し、終盤で「こういう話だったのか!」と膝を打つ作品。時系列が錯綜するかなり複雑な構造を持った作品であるため、普通であれば終盤で大々的に種明かしをして客を驚かせるような演出をしてもよいような作品なのだが、本作では順を追って丁寧にストーリーテリングを行うことで、話の構造を分かりやすく飲み込みやすいものにしている。これによって、観る側はギミックに驚きこそスレ、気を取られすぎることなく、それぞれの登場人物の感情の動きに集中することができる。この作りは非常に好印象だ。序盤のトントン拍子に進む展開であったり、中盤のあるエキセントリックな人物の登場であったりによって、作品全体のフィクションレベルが若干揺らぎかける部分がある点は否定できないが、作品全体に通底する貧困や病といった社会の暗部の描き方が非常に地に足がついたものであるため、我々の普段の生活と地続きにあるように感じられる作品になっている。
佐藤二朗と伊東蒼と清水尋也の3人が代わる代わるに主導権を奪い合うスリリングな映画となっており、それぞれの方向性の違う演技が1本の作品に収束している点が本作の一番の見どころだ。清水尋也は嫌悪感を引き起こさせる"キモさ”とカリスマ的な色気を同時にまとった連続殺人犯の山内照巳を見事に体現している。また、佐藤二朗はいわゆる佐藤二朗らしい癖の強いとぼけた演技を今作でも見せているのだが、本作ではこの演技が平凡で不器用な一小市民が道を踏み外していく"いたたまれなさ"にリアリティを与えている。しかし、なんといっても本作のMVPはこういったアクの強い飛び道具を存分に振り回す二人の俳優に対して、ナチュラルな演技で互角以上の存在感を発揮してみせた伊東蒼だろう。昨年公開の『空白』で見せた内気でおどおどした少女から一転して、誠意のない周囲の大人たちへ若者らしい燃えたぎるような怒りを叩きつけ、歯を食いしばりながら強かに父の消息を追う少女の姿を圧倒的な実在感で演じている。一癖も二癖もある俳優たちのドロドロの演技合戦の中、最後に最も客の心に掴むのは間違いなく伊東蒼だ。今後の活躍が実に楽しみな俳優である。
でっかくなっちゃった赤い子犬 僕はクリフォード
巨大な赤い子犬のクリフォードと飼い主の少女エミリーのニューヨーク全土を巻き込むドタバタ活劇を描いた作品。クリフォードを自身の事業に悪用しようとする大企業ライフグロ社の社長や、彼に騙されてクリフォードを捕まえようとする警察から、クリフォードを守ろうとするエミリーたちの奮闘が描かれる。
本作のメインテーマは多様性で、7-8m級の体躯ゆえに異質な存在である子犬のクリフォードを排除しようとする大人たちから、彼を守ろうとする主人公・エミリーの姿を通して、マイノリティーを排斥しようとする社会を暗喩している。クライマックスでエミリーの口からかなり直接的にこのテーマが語られるので、暗喩と言うより直喩か。ただ、クリフォードを追い回している大人たちは、クリフォードへの差別意識を原動力にして行動しているわけではなく、私利私欲のためであったり、害獣駆除のためであったりといった動機で動いており、また、作中に登場するマンハッタンの人たちもクリフォードの巨大な姿を見て、驚きこそすれ、恐れたり侮蔑したりはしないため、あまり描きたいテーマと描写が一致していない印象。ラストの展開には「この映画って、そんな話だったかな?」と首を傾げてしまうというのが正直なところだ。
また、終盤ではクリフォードを捕まえようとするバイオ企業ライフグロ社VSクリフォードを守ろうとするニューヨークの下町の住人たちという展開になっていくのだが、この展開に至るまでにクリフォードとニューヨーク市民の交流がほとんど描かれないので、町の人たちが良く知らない犬のために妙に頑張ってくれる人たちになってしまっている。クリフォードのその大きさゆえのドタバタという予告編から期待されるような展開が、全編を通して思いの外少ない点も残念なところ。そういった描写を交えながら、クリフォードとニューヨークの町の人達との交流を序盤でもう少ししっかり描いてくれていれば、ファミリー映画としての満足度も上がり、終盤の展開のカタルシスもグッと高まったのではなかろうかと思われる。
ただ一方で、終盤のニューヨークを舞台にしたエミリーとクリフォードの大立ち回りはスピード感があり、可愛らしくもスリリングで映像的に非常に面白い。また、ニューヨークの町の人達とライフグロ社のコミカルな攻防も、ファミリー映画の王道的な面白さがある。本作の顔である子犬のクリフォードは、容姿は完全にリアルな犬にも関わらず、サイズが恐竜レベルという一歩間違うと怖い印象になりそうな存在だが、全編通してくまなく可愛らしく描かれている点も良い。表情でかなり人間的な感情の演技をさせているにも関わらず、犬としての容姿のリアリティが損なわれないような絶妙なラインをついている点も素晴らしい。
フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊
架空のフランス雑誌『フレンチ・ディスパッチ』の映像化というコンセプトの作品で、掲載されている4つの記事が順番に描かれるオムニバス作品というかなり変わった作りの作品。あるカットは舞台演劇的であったり、またあるカットは漫画的であったりと、虚構感溢れるカットで徹頭徹尾作品が構成されている。本作はほとんど全てのカットが偏執的とも言えるほどに趣向の凝らされたものとなっており、どのカットをとっても絵画やポスターのようにアーティスティックで、言うならば、繋ぎのシーンが一切なく、決めのシーンだけで構成されているような映画だ。美術展の目録のページをめくるように、次の1秒にはどんな驚きが待っているのかワクワクとしながら、あっという間に約1時間半の上映時間が終わってしまう。驚くほど多様な映像表現がこれでもかと詰め込まれており、映像体験としての心地よさと満足感が飛び抜けている。
前述の通り、映像自体は舞台演劇的であったり、漫画的であったりと、非常にフィクショナルでありながら、作品全体に通底する寂寥感のある空気感や登場する一人一人の人間の内面は、非常にリアルで重層的であるのも本作の魅力だ。キャストの数が非常に多く、それぞれのキャストが短い出番で確実に爪痕を残す良い芝居をしており、役者の熟達した演技を見るという側面の喜びもある映画だが、個人的に鑑賞後に一番印象に残ったのはSTORY #1に登場する女看守シモーヌを演じたレア・セドゥだ。眉をピクリとも動かさずに、獄中の天才画家モーゼス・ローゼンターラーの才能に惚れ込む女性の愛と強かさを表現している。
本作は3つの物語で構成されたオムニバスであるが、一つ一つの物語のボリュームがそれだけで1本の映画が作れるほどのものとなっており、かつ、その一編一編にこれもまた狂気的なまでに細かなディテールや遊びが詰め込まれている。そのため、とんでもない高密度の情報が頭から終わりまで途切れることなく押し寄せてくるような構成となっているため、一度の鑑賞では全てを堪能するのは困難な贅沢な作品となっている。受け取り手の知識と教養に多分に依存する作品であり、フランス映画やフランス史、そして、『ニューヨーカー』誌への知識や思い入れがあるほど、より刺さる作りとなっている。個人的にも本作のポテンシャルを100%受け止められるだけの教養が自分にないのがこのうえなく歯痒く心苦しい。