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「老い」と「所有」されない女について

【生老病死】

先日、腕にできた腫瘍を取るために入院していたのだけど、そのときに同室になったお婆さんが一日中奇声を上げたりうめいていたりしていて、すっかり参ってしまった。

彼女は色々な管に繋がれ、言語で意思疎通をすることは難しく、静かなのは寝ているときだけだった。

その人に限らず、病院中が老人の奇声とうめき声で満ちていて、私は、

「果たして、こんなふうになっても人は生きるべきなのだろうか…?また、彼らはそれを望んでいるのだろうか?」

などと疑問を感じてしまった。

「老いて、病気になり、死ぬ」それは人間にとって避けられないことだ。ゆえにこの世は苦しみである、というのが仏教の基本的な考え方だが、まさにその地獄を目の当たりにした気分だった。

だいたい、人はどうして老いるのだ。初めは若いのにどんどん老人になって行くなんてつらすぎる。
逆に、初めは老人で、どんどん若返っていって、かわいい子供になって赤ちゃんになって消滅する、というのならもっと人生にやりがいもあるだろう。

ただ、生まれたときから老人だったら、子育ては老人介護から始まることになり、親は子供の可愛い時代の姿を見ることもかなわないため、「子供はかわいいから」という理由で人間を生む人は居なくなり、人類は滅びるかもしれない。

もしくは、人間は基本的に死を恐れているので、「死」に近いことを想起させる容姿を醜く感じるのかもしれず、そうなると今でいう老人の見た目こそが、幼くてかわいい、ということになって美意識の反転が起こるのかもしれない。
ーそんな、とりとめのないことを思ってしまった。

入院生活のさなか、私はたくさん本を持ち込んで読んでいた。その中には、ずっと積読だった、若竹千佐子著・「おらおらでひとりいぐも」という数年前の芥川賞受賞作品もあった。この小説の主人公・桃子さんは、まさに老いと向き合っている74歳の女性である。
桃子さんの本質は子供の頃となんにも変わらないのに肉体はただ老いていくというリアリティが感じられ、東北弁の自由な表現が面白く、良い小説だった。この小説にあった、老いと衰えについての記述を紹介する。

「死ぬことなど何にも恐れないと普段は豪語している。だがその一歩前の衰えが恐ろしい。自分で自分を扱えなくなるのが死ぬより怖い」

私は同室のおばあさんの「あああああああー!!」という絶叫を聞きながら、上記の文章を読んでいたのだった…。臨場感と説得力がありすぎでしょう。

【女と老いとまなざし】

ここからは、もう少し自分のことを掘り下げて話していく。女としての私と、老いと、他者の「まなざし」について書いていきたい。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールというフランスの女性哲学者は、ジェンダー概念の元祖とも言える人で、「第二の性」という、女性についての著作を出した。

「第二の性」には「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という鮮烈な言葉がある。
女らしさは「自然性」ではなく男女の「関係」から作られ、女とは男という主体によって作られた他者であると言う。

そんな彼女が老いについても書いていると知った時、深く納得した。今まさに、NHKのテレビ番組「100分de名著」で、ボーヴォワール「老い」が取り上げられているのだ。

老いは、女性にとって(男性にとってもそうだろうけれど)、実質的な体の不調などの諸問題以上に、アイデンティティの問題を多く含んでいる。
「第二の性」で書かれるように女性は美しさを求められ、若さと外見の美しさには深刻な相関関係があるからだ。彼女はこう言う。

「男性の立場からすれば、女性の境涯は色情の対象であることなので、年をとって醜くなる時、彼女は社会のなかに割り当てられた場所を失うのである」

国も時代も違うけど、悲しいことにいまだにそんな感じである。若く美しくなければ女性に居場所がない世界、それは男のための世界である。

私はホステス業のバイトをしていたので嫌と言うほどこの問題にさらされてきた。わざわざ書きたくないほどの暴言も耳にしてきたけれど、流れ被弾する方がいない様に、せめて年齢を伏せて書きます。

「◯◯歳以下の子いないの?帰るわ」
「結婚してないの?早くした方がいいよ。女性は◯◯歳以上になったら需要ないからね〜」
でっぷりとした腹に、テカテカの肌に、ハゲ頭。男は、そんな自らの老いさらばえた姿を思いっきり棚に上げてそう言うのだった。棚もびっくりしていたと思う。
他にも容姿や体型について好き勝手言われた。
商売だから、お金をもらっているから、という理由だけにはきっと留まらず、男は審査する側だという社会構造ができている。

1グループに何十人もいる10代を中心とした制服アイドルグループの乱立。人気投票で順位付けされ、清純派を謳うのは写真集で下着姿を晒したとき市場価値をあげるための戦略。女子高生ばかり出てくるアニメ。ネットを開けば過激なエロ広告。世界はいつも若い可愛い女の子で満ちあふれていて、次から次へと供給がある。「若い人に投資したい」などとそれらしい綺麗事を並べて、おじさんがお金で若い女の子とデートする。(では、なぜ若い男に投資しない?)
「パパ活女子」がテレビで特集され、繁華街を歩けば、ピンクのMCMリュックを背負ってマイメロディのマスコットをつけたツインテールの幼なげな女の子が、初老のおじさんと腕を組んで歩いている。なんという国なんだろうかと思う。
元々は売春目的の掲示板における隠語だったらしいJC(女子中学生)、JK(女子高校生)という呼称を、若い女性本人が自称している時点で異常事態である。

私はといえば、恥ずかしながら、かつてはその構造を甘んじて受け入れていた。
なぜかというと、親のネグレクトやらいじめやらによって、基本的な自己肯定感が地中深く落ち込んでいたために、大学時代に始めた水商売やらなんかで「若いね、カワイイね」などとオジサン達にちやほやされることで、自分に価値が生まれたような気がしたのだった。
今となっては馬鹿馬鹿しいけれど。(とは言っても、かわいげのある性格をしてないので、実際に受けた恩恵はそれほどでもないと思う)
そして、そうしたものが基礎的な自己肯定感の源になってしまった気さえする。

私は変で、おかしくて、歪で、狂ってて、見た目もコンプレックスばかり、孤独で、めんどくさくて、普通になれなくて、存在を否定されてきた。でも、「若い女」だから商品価値があり、生きることを許されたような気がした。

けれど勿論そんなものは仮初にすぎず、女は永遠に若く居ることはできない。若くなくなったら、彼らはまた新しく、若くかわいい女を消費するだけである。

だから男にとっての若さとか美しさとか、そんなところに軸足をおいてはいけない。「若くて可愛い」から価値がある、生きていていいなどと思うことは、若くなければ生きていてはいけないという考えと同義だ。

それでは歳を重ねることが恐怖になっていくし、実際私は、自分の年齢について言及されているものを見るたびにしんどい気持ちになる。「え、マジか?」ってなる。実感が持てない。私たちは数字に支配されている。私は10歳くらいのときは精神がすでに大人になってて、そこから何も変わっていないのだ。早く大人になりすぎたアダルトチルドレンだ。子供のままで抱きしめられたい。全然気持ちがついてきていけてないというのが、寄る辺なく孤独でグロテスクな、私の現状だ。

ネットを見ていれば、今日も夜の仕事やアイドルの若い可愛い女の子達が、

「太った死にたい」
「私はもう◯◯歳だからババアだし需要ない」
「整形しないと。こんなブス人権ない」
などと悲鳴をあげている。彼女達は、常に他人と自分を比較して、より若く細く美しくないと価値が見出せない。消費されることで自分を見失い苦しんでいる。若さ至上主義の犠牲者ともいえる。
散々良い思いをしてきただろう、女を売りにすることのツケだ、という人もいるかもしれない。しかし、もちろん夜の仕事に限ったことではない。

若い女の子だから下心込みで文章の仕事をあげた、なんて話も聞くが、夜の誘いを受けたりセクハラを受けて、それを断ったら仕事が来なくなったなんて話も聞く。どちらにせよ、私は女性の若さを搾取することはとてもグロテスクで暴力的だと思う。
もちろん、女性を消費するような言動をしない男性も居て、私はそういう男の人を好きなのだけれど、そういう男の人はこの社会ではまだまだ生きづらいだろうな、とも思う。

他者の尺度に過度に依存してしまうのは、もともと自己肯定感が健全に育まれてこなかった子達なのだろう。そのなかには、整形依存や摂食障害に陥った果てに自殺してしまう女の子もいる。

「若く美しいうちに死にたい」と言っていた、整形依存の19歳のアイドルが少し前に自殺してしまった。一体どこを整形するのかという超美少女で、なんなら整形前から美少女だったのに、「もっと綺麗になれれば人生変わるかな」と言って整形を繰り返していた。「漠然とした満たされなさ」を、「綺麗ではないから」という理由にすり替えて、対処できる問題へと変換させることで問題の核心から逃避しているようにも見えた。
それは波打ち際に砂の城を築くようだった。どうせまた波がやってきて攫われてしまう。攫われてしまった。

問題は、「若くないこと」や「美しくないこと」なんかではない。
他人の価値観に委ねてしまうことが問題だ。そうしたことで揺らいでしまうほどに、自我の地盤がないのが問題だ。
それは、あなたという存在を他者の「まなざし」によって「所有」されてしまうことなのだ。

ボーヴォワールと事実婚していた哲学者サルトルの言葉に、
「地獄とは他人のことだ」
というものがある。サルトルとボーヴォワールは夫婦だけあって、思想の根底が似ており、ボーヴォワールの思想はサルトルの思想に基づいたものになっている。

ここから少し難しい話になるけれど、先ほど述べた「他者に所有される」ということについて書いていく。
自分が自分に対するときの存在として「対自」というものがあり、そして自分が他者に対するときの存在として「対他」というものがあるとサルトルはいう。「対他」存在を作り出すのは、他人の「まなざし」である。

他人から眼差しを向けられると、自分が自分のものではなく他者のものになり、自分の評価が他人に委ねられてしまう「他有化(アリエナシオン)」が起こるという。
サルトルは、それを地獄であると言ったのだった。先程述べた若いとか美しいとかの話にしても社会的な立場の話にしても、他人の評価に委ねることは、地獄の始まりである。
また私たちは、まなざしを世界に向けることで世界を構成し所有していたのだが、他人のまなざしが現れると、他人が自分の世界を構成し所有することになるという。

それって、実感としてすごく分かる。
私は幼児の頃、ひとりでずっと人形遊びやお絵描きしているような子供だったんだけど、そうやって自分で自分の世界を作り、ひとりで世界と融合していたとき、幸せだったと記憶している。

しかし、保育園に入れさせられ、急に多数のまなざしに晒されることになり、「すべてが入ってきた」みたいな状態になってしまった。それからずっとつらい世界になったような。なにせ私は幼児の頃から、全然周りと馴染めなかった。
それでも順応しようとし、優れた存在になろうとし、そのうちに他者のまなざしに呑み込まれ、私自身が他者のまなざしそのものになってしまった気もする。

私の人生には、これが私の人生の最高潮かな、と思えるような嬉しい瞬間がいくつかあった。難関校に合格したり、好きな人に愛されたり、通じ合える友人や心安らぐ居場所ができたり、仕事を褒められたり、賞をとったり、ライターデビューしたり、被写体活動で褒められたり。
それでも、それらの喜びは「他者のまなざし有りき」の喜びだ。不本意なことに他者のまなざしのある世界に放り込まれてしまったから、「まぁしょうがない、やったるか」で手に入れた喜びだ。私はきっと人一倍、「価値のある存在になりたい」という気持ちが強かった。他者のまなざしを恐れていたからだ。
もしかしたら、本当は、クマのぬいぐるみと一日中喋ってたころが、私の人生の絶頂だったのかもしれなかった。

他人のまなざしに完全に所有されてしまったら、幸せになることは難しい。他者の目線を常に気にして生きなければならないからだ。

そして、他者によって所有された人々は、「欲望」を植え付けられる。例えば若い女の子達は、「痩せたい」「韓国アイドルのようにきれいになりたい」「ハイスペ夫と結婚したい」などと言っては、過酷なダイエットをしたりブランドものを買い漁ったり整形を重ねたりする。それは誰の欲望だろう。作られた「他人の欲望」が伝染しているのだ。欲望は満たされることはなく、常に新たな欲望が生まれ続ける。それが資本主義社会なのだ。

【他有化からの逃走】

ところで私は、女芸人コンビの阿佐ヶ谷姉妹が好きだ。なぜかというと彼女達は、「所有されていない」からだ。男のまなざしに所有されてない。それゆえか、自由でとても幸せそうなのだ。そこにホッとする。

芸人、なかでも女芸人というのは、「おばさんネタ」「ブスネタ」「独身ネタ」などの自虐をやりがちだ。それは、そのように判断する他人のまなざしに身を委ねて、そうした価値観を世の中に広めていることに他ならず、害悪だと思う。

受け手は無意識のうちに、「この年で独身だとヤバイのかな」「◯◯歳からはおばさんと言わなきゃいけないのかな」などと刷り込まれてしまったりする。また、「ブスやデブは馬鹿にしていい存在なのだ」というメッセージを発信することでもある。自虐、特に自らの「属性」を自虐することは、同じ属性の者に対しての加虐なのだ。

テレビに出るような人々には、言葉を使う時、その言葉を広めていきたいか、その価値観を広めていきたいか、その価値観が広まった世界に住みたいか、ーーそういうことをもっと考えて欲しいものだが、残念ながらそうではないから、そんなことを言ってもしょうがない。こちらで摂取するものを選択し調整していくしかない。

阿佐ヶ谷姉妹は、そういう自虐をしない。おばさんとか独身とか自虐しなきゃいけないような空気感のなかでも、そんな空気に飲まれない。
彼女達はコンビで仲良く暮らしていて、楽しそうで、かわいらしい。はじけるような笑顔で雑誌の表紙を飾っている。そう、人間ってこれでいいんだよ、と思う。「女」じゃなくて、人間でいい。
なんだか歳を重ねた独身女性の生き方のロールモデルって少ないけれど、阿佐ヶ谷姉妹、とてもいいんじゃないかと思う。


老いを描いた小説・「おらおらでひとりいぐも」に、私は癒しを感じたのだけど、それは哲学的で本質的だったからだろう。夫を亡くした老人の孤独な一人暮らしだけれど、桃子さんの頭の中はいつも賑やかだ。

「おめだば、すぐ思考停止して手垢のついた言葉に自分ばよせる。何が忍び寄る老い。なにがひとりはさびしい。それはおめの本心か。それはおめが考えたごどだが。(中略)当たり前と思ってるごどを疑え、常識に引きずられるな、楽な方に逃げんな、なんのための東北弁だ。われの心に直結するために出張ってきたのだぞ」

「老い」に向き合いながらも、桃子さんはずっと「自分」で在り続けている。それは、哲学でいうところの「実存」だ。他者のまなざしに囚われないほんとうの安寧は、孤独の先の自由のなかにこそあるのかもしれない。

ボーヴォワールはいう。

「人間はただ存在することを断念して自分の実存を引き受けたときに、本来的な倫理的態度に到達するのである」

そして、そうしたときに、
「女も他者ではなく、主体になれる」
のだという。人間は、特に、他者から与えられた役割を演じてしまいがちな女性は、意識的に他者のまなざしから離れて、自分に立ち戻ることが必要なのかもしれない。

しかしもちろんこの記事は、他者のまなざしを意識して書かれているのである。

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