寺社雑談『慈舟山瑞泉寺(畜生塚跡)』
その門をくぐると、いつも緊張感を覚えます。
とても静かなお寺です。
世界でも有数の観光都市である京都の中でも木屋町三条という繁華街にありながら、そのお寺は観光客で込み合うような場所というわけではありません。
その昔、豊臣秀吉公の命令により自害した関白秀次公と、その一族の子女を供養するためのお寺です。そこはかつて『畜生塚』と呼ばれた塚の跡にあります。
秀次公は秀吉公の跡を継いで関白となりながら、狼藉や謀反の疑いをかけられて、切腹の沙汰を受けました。
それだけでなく、39人もの側室や年端もいかない子供たちも三条河原で斬首され、傍らの穴に埋められたといいます。そこに設けられた粗末な塚は、畜生塚と呼ばれました。文字通り、畜生の扱いを受けたのです。
後の検証からも一連の嫌疑は冤罪、というより秀吉公の言い掛かりであったという説が有力になっているようです。見てきたわけではないのですが、私もそう思います。
秀吉公は、最愛の淀殿との間に念願の息子が生まれて、その子に自分の跡を継がせることだけにとらわれてしまったのでしょう。自らが後継者に指名した秀次公が、ただの邪魔者にしか映らなくなったわけです。もはや理性を失ってしまったとしか思えません。
現在とは価値観や定義が何もかも違っている時代のこととはいえ、権力者がこれほど残虐なことを行えば、人心も離れていって当然です。実際、このあたりから豊臣家の終わりが始まったとも思われます。人心掌握に長け、人たらしとまで言われた太閤も、老いて我欲に勝てなくなってしまったのは哀れで仕方ありません。
(「秀次公切腹の命令をしたのは秀吉公ではない」など、多くの説があります。)
瑞泉寺の門をくぐると緊張感を覚えますが、けっして不愉快なものではありません。むしろ心があらたまり、しっかりお参りできる気持ちになります。これは完全に私の想像でしかないのですが、整然と並ぶ石塔の前に立つと、まるで39人の子女たちが正座して歓迎してくれているように見えてきます。その礼儀正しさに、若くとも、幼くとも、さすが武家の子女だと感心するばかりです。過去の恨みを訴えるという感じではありません。日頃からの供養に感謝しているということでしょうか、穏やかに感じられます。
石塔の中でも札が立っているのは、「悲劇の姫」と呼ばれる駒姫のものです。
東国一の美女と言われ、秀次公から側室にと強く請われて入洛しましたが、京に到着してすぐに捕われ、市中を引き回された末に否応なく処刑されました。秀次公には、会うことはなかったそうです。15歳でした。
歴史はヒストリー(history)であり、ヒズ・ストーリー(his story)、つまり勝者の物語です。後に語り継がれる伝説や遺産の多くは勝者が作ってきました。
けれど、その陰で黙るしかなかった人たちもまた、歴史の一面を作っています。
京都には毎日たくさんの方が観光に来られています。絢爛華麗な建造物や文化施設を巡るのはもちろん素晴らしい体験であり、私も大好きですが、同時に、この地で静かに眠る方たちをどうか忘れることなく、手を合わせる機会を持っていただけたらと思います。
瑞泉寺では、いろいろイベントもされているようです。
気軽に参加できそうですね。
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