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〔ショートホラー〕霧の朝

霧の朝はいつも緊張する。何かが息を潜めて、こちらの様子を窺っているのを感じるから。

私が山の中腹のこの森の中で、一人で暮らし始めてもう数年になる。会社員時代にコツコツ貯めた僅かな蓄えを使って、うち捨てられた古い小屋を安く買い、必要最低限のものだけを揃えた。スマホの電波も届かず、方位磁石もユラユラするばかりで役に立たないこの場所を、私はとても気に入っている。
時折、道に迷った登山者を泊めてやることもあるが、それ以外は何も変化のない生活。他人に気を遣って神経をすり減らすことも、意味不明のマウントを取られて不快になることもない。小さな畑や森で採れるものを主な食料として、慎ましく暮らしている。足りない物は山を下りて買いに行くが、それも年に数回だけだ。もう家族はいないので、うるさく言われることもなく、この心地良いペースを守れているのは有り難い。

ただ、この森には、時折濃い霧が出る。山では珍しいことではないが、ここの霧は普通の霧とはどこか違う。触れるとヒヤリとしているのに、妙に生臭く、魚の死骸のような、または誰かの息を吹きかけられているような、独特の不快感があるのだ。
いつもなら朝から畑に出るが、霧の日は別。この気味の悪い霧の向こうからは、ねっとりとした視線を感じるし、時にはすすり泣くような声も聞こえる気がする。そんな得体の知れない者たちと遭遇したいとは、誰も思わないだろう。

今日は一段と霧が濃い。今朝の畑仕事は諦め、小屋で薄い緑茶を飲みながら予定を立てることにする。午後になって霧が晴れたら、久し振りに山を下りよう。軽トラに燃料を入れ、当面の米や肉類など、ここで手に入らない食料を買っておこう。
目の前の高そうな黒い革の財布を手に取り、中の現金を確認する。うん、これだけあれば充分足りるはずだ。最近はキャッシュレス化の影響で、買い物も以前と同じようには出来ないが、それでもここは田舎なのでまだ良い。それもここを住処に決めた理由の一つだった。

黒革の財布から何枚か1万円札を抜き出し、古い合皮の財布に移す。買い物に行く度に違う財布だと、不審に思われるかも知れないから。まあ、年に数回しか買い物に来ない客の財布など、誰も覚えていないとは思うが、用心に超したことはない。
その時、小屋の扉をノックする音が聞こえた。
「あの、済みません。霧で道に迷ってしまって……」
若い男性の声。この声だと、キャッシュレス世代か。あまり現金は持ち合わせていないかも知れないが、まあ無一文ということはあるまい。調味料入れを確認してひとつ頷く。大丈夫、キノコや野草から抽出した毒はまだ充分ある。
「はい、今開けます」
愛想よくそう言いながら、まだいくらか現金が入っている黒革の財布を戸棚の中に放り込んだ。そこには金運が良くなりそうな黄色の財布や、真紅の女物の財布、誰でも知っているブランドの財布などが無造作に転がっている。明日の朝には、ここにまた新たな財布が加わりそうだ。

霧の朝は緊張する。過去の亡霊に苛まれそうにもなるが、新たな獲物が来ることもあるから。この森は深い。獲物を埋める場所なら、まだまだいくらでもある。
「大変でしたね。さあ、ここで少し休んでください。今、熱いお茶をいれますね」
私は小屋の扉を開けて軽く微笑むと、若い男性を招き入れる。チラッと外に目をやり、他には誰もいないことを確認してから、静かに扉を閉めた。

(完)


こんばんは。こちらに参加させていただきます。

はい、霧の朝という爽やかな言葉から、ホラーしか浮かびませんでした。疲れてるな、自分。

小牧さん、お手数かけますがよろしくお願いします。
読んでくださった方、どうもありがとうございました。


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