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歳をとること

年齢の呪縛

私の祖母もまた人の目がとても気になる人だ。

シワやシミが気になるし、十分に痩せすぎているのにまだ足が太いと言っている。ある意味でいつまでも女性は女性なのだと思う。

20代と同じことを人はいつまでも悩むのだと思う。

いつまでも女性であることは素敵だと思う。そうであっても良い。

イタリアでホームステイしていたおばあさんは同じくらいの年の彼氏とデートに堂々と行ったりしていた。
あるおばあさんはシワとシミだらけの胸元を強調する服を堂々と着ていたり、おばさんくらいの年齢でもみななんだか少女のような心の若々しさを感じたのだった。

イタリアのおじいさんたちも友人を引き連れてカフェでカードゲームをしたり、学生がマックに集まって遊んでいるかのように無邪気だった。頭が禿げてもオシャレをして、いつまでもモテたい。だれも自分の身を隠して恥ずかしそうにしていない。
皆がそうではないのだろうけれど、
なんだかみな堂々として見えた。

それはたぶん日本のように、「〜歳だから恥ずかしい」とか「〜歳になった相応しい行動」なんてものがそこまでないのではないかと勝手に感じた。

どうしてもそのように年齢に対してレッテルを貼ってしまう。
そしてレッテルを貼られていると思って自粛した生き方をしてしまう。

35にもなって結婚していない。
60歳であんな派手なミニスカートなんて、、、
70で恋人といるなんて、、、

田舎では歳をとるとみな同じような服装をしている。
おじいさんが着る服を着ていて、おばあさんが着る服を着ている。
もしかしたら趣味が変わってみんなそうなるのかと思っていたけれど、たぶん
自粛してほどほどに皆着ている恥ずかしくない服を選ぶとそうなってしまうのかもしれないとも思うのだった。

じゃがいも🥔とにんじん🥕問題

モグラはワシにはなれない。
 魚はカエルにはなれない。
 運命に逆らうな!

 自己実現する心の姿勢をおろそかにし、劣等感から「理想の自我像を実現すること」に努力するのは、運命に逆らっていることである。

 向上心とは、自分のできることの中でがんばることである。自分のできないことをしようとして、無理するのは向上心ではなく劣等感である。

(自分の心をしっかり守る方法 加藤諦三 著)

この言葉はわかってはいたものの、しっくりくる。

私の祖母のように、“別のものに”憧れるうちは、決して叶わない願望となる。

そうなるといつまでもその“叶わぬ願望”と自分を比較し続けることとなり、
劣等感を抱え続け、自己否定を行い続けることになる。

つまりジャガイモが人参になろうと努力することでこれは劣等感であり、向上心ではない。

そこには幸せに到達する術がない。

そしてたとえ自分が満足できるレベルになれたとしてもそこには満足ではなく劣等感の裏返しの優越感が出てくる。

そこには常に、比較し続けること、勝ち負けの優劣のようなものしかなく、いつまでも不安定で満たされることがない。


それは年老いてもまだそうなのだたぶん人は心に決めない限り死ぬまでその沼にはまり続けるのだと思う。

若さの呪い

日本では「若さが絶対」のような雰囲気がある。

シワやシミは恐ろしいもので、毛が薄いことは恥ずかしいことで。白髪は老いの象徴のような。いつまでも若くい続けなければいけないという呪いにかかっている。

歳おけば、必ず体はどう考えても若いままいることができない。どんな新品の家電も10年もしたら新品のままではいられないように。

若くいなければいけない呪いの中では、歳をとるほど若くはいられない現実と向かいあわなくてはいけないし、劣等感はどんどんと高まり続ける しかない。

自分は若い。なんていう優越感を味わう日はたぶんこない。

優越感が味わえるとしたら、同世代よりはマシということぐらいだろうか。さすがに20代と比較して若さで勝つなんてのは無理だ。

ジャガイモである他に幸せになれない。

ジャガイモが人参になろうとすると→比較と優劣のループ→自己肯定感は上がらない。

だとしたらどこかでジャガイモはジャガイモで満足しなければ満たされることがないということになる。

比較と優劣の争い。若さの呪い。から解放されなければ、満足するという目的地には到着できないようだ。

自分を肯定していくこと、自分の持つもので満足して、自分の範囲内で自分を磨くことでしか心から満足して生きることはできないのではないのだろうか。

自分の醜さも愛して

象のようなシミシワだらけの胸元を見せつけるような服装のおばあさんのような、

シワシワでも気品のある老婦人のような

はげあたまでも、白髪でもまるで勲章かの如く生きている生き様にわたしは惚れる。

それは一見醜さとも言えるが、それを醜いと捉えているこちらの価値観が揺すぶられる。

醜いと思える場所ほど比較しているとも言える。比較するほど人の目も気になる。その点がまるで周りに嘲笑われているように感じてしまう。

太い足も、大きな顔も、太っていても痩せていても、顔のパーツも完璧じゃなくても愛していきたい。

この世の中が美しいとしているものは所詮は希少だからで、
太っている人が多ければ細い人、細い人ばかりの時代では、太った人。外国の方が優れていると思えば、日本人的な美しい黒髪も、切長なひとえまぶたも醜いとされてしまう。

また同時に、歳をとった人の方が好きな人も、太った人が好きな人も、イケメンでなくてもこの人の顔がタイプという女性もいる。

とても不思議だけれど、その人がその人のままで受け入れられる相手がいる。
誰しもにいるのかはわからないが。

ただ大多数に好かれるために不毛な競争に巻き込まれるほどたくさんの人にちやほやされてもなかなか本当の自分を理解してくれる人が現れないなんてこともある。

どんなふうに歳をとる

まだわたしは中間的な年齢なのだけれど、白髪も悪くないと思う。もしそれが老いの象徴でないのなら、人生に2色の髪の色を味わえると思うのなら素敵じゃないかとも思う。
ハゲても堂々とハゲたい。
カラフルな服を着て、カラフルなメガネをかけたい。

いつまでも劣等感を抱え続けるか、自分で満足して生きるのか。

実際にシワができたり、ハゲ始めたり、半端に白髪になる頃に迷うのだろうと思う。なかなか思うようには心は決められないのかもしれない。
それでも醜くなると捉えるのではなく、それを受け入れて愛していきたいと願う。



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