変わる必要はあるのだろうか
私は自分の醜いところを愛したい。
・人の顔色を伺う。
・ネガティブである。
・運動したくない。週間が続かない。
・働きたくない。
・愚痴を言う。
・人の揚げ足をとるようなことばかり見る。
、、、
自分の醜いところはたくさんある。
それを変えようと思ってきた。
人の顔色をなんて気にしても仕方ないじゃん。自意識過剰だと言われてきた。いや論理的にも無意味であることはわかっているのに変えられないのだ。
ただ変わる必要は本当はあるのだろうか。
良く言うなら、
・人の顔色を伺う→人の感情を深く察する力。
・ネガティブ→リスクを考えて行動できる人。
・働きたくない、習慣が続かない→やりたくないことができない。やりたいことがある人。やりたいことしかできない。
・働きたくない。→そう言う考えの人がいたって悪くない。今まで一生懸命働いてきたから?
・愚痴を言う→それだけ我慢強い?
・揚げ足をとる→どうしてもなんでこんな服着てるのか。カツラ?とか気になってしまう。その人を偏見なく見たいのに。でもそれだけ観察力があるとも言える。受け入れ難いが。。
こんな捉え方をしていたらなんだかポジティブなんじゃないかと思う。少し無理があるが、
そう考えると悪い部分もその人の個性やキャラクターを形成しているとも言える。
アニメで、陰気なキャラや、テキトーな生き方の人や、文句ばかり言っているキャラが個性的であるように。
醜い、変えたいと思っている部分もまた自分らしさを形成している要素の一つでもあるのだ。
観点が問題
もし大多数にモテたいのであれば、ポジティブな方が一緒にいて好まれるかもしれない。
ただこの世の中にはあまりポジティブな人といるとつかれたり、臆病でおとなしいくらいがいいと考える人も少数ながらいるだろう。
やはり醜い、変わりたいと思っているものは、普通になりたい。一人前になりたい。当たり前になりたい。 というよくわからない普通を基準として、基準と違う個性を足りないと錯覚して補おうとしている。
普通って
普通ってなんだろう。それは国によっても大きく違う。宗教や文化によって普通は違う。
多分日本の普通になろうとしていた。
繊細ならもっとタフになろうと、ネガティブならポジティブに。愚痴っぽい人間から誰からも好かれるような健やかな人間に。
それでも変わろうとしているから考えているんだろうか?いや。
強い自分になろうから→そのままでありたいへ
今まではもっと良い自分になりたいと思っていた。
しかし今は自分というものが無理をしないでいられる自分でありたいと思う。
そのために心を整理する。当たり前と思っていることの中にとらわれてしまった心を自由にしてよりその人らしく生きる。
装備して強くなるのではなく。重い装備を脱いで身軽になるように。
そもそも人は変われるのか
世間では人間は変わらない。という人と、人は変われるという人がいる。どっちなんだろう。
個人的見解に過ぎないが、
変われる部分と変わらない部分がある。
変わらない部分とは、HSPの性質のように、努力ではどうにもならない性質。
背の高い人が低い人になろうとするような。
キリンがライオンになろうとするような。そんなのは無理なことだ。変わらない。
変わることができる部分とはなんだろう。
たぶん身につけた服を脱いでいくようにして変わる。
つまりは知らないうちに変わってしまった自分を本来の自分に近づけていくから変わるのだろう。
何によって知らないうちに変わってしまうのだろう。
それがたぶん、普通、常識、環境ではないだろうか。
それによって矯正されたり努力したりして身につけてきた装備によって、知らず知らずに形成されてしまった自分。
モコモコに服を着込んだ子どもみたいになっている。
そういうものは一つ一つ脱いでいくと本来の自分というものに近づいていく。つまりは変わっていける。
変わるということは、自分にないものを着ていくことではなく、脱いでいくことなのだろう。
変わる必要はないのではないだろうか。それは性質や本来の自分は変わることができないから。変わるとしたらもっと本来の自分に近いていくことなのだろう。
それは多分いろんな醜いことを受け入れていくことなのだろう。
理想の人物になろうとすることではない。
あるがままの自分を受け入れていくこと。
見た目や内面も自分だけの個性を満足していくことにあるのだろう。