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英才特訓教室に通っていた私ですが、今は作業所に通っています。

 私は猫足三粒(ねこあしみつぶ)。1980年、高知県高知市生まれ&在住。趣味は書店巡りにドライブ。高知の海・山・川大好き。ちなみに独身。

 ものごころついた時から、自分は他の人と何か違う、そう思ってた。みんなは周りの子たちと仲良く遊んでる。なのに私は、その面白さが分からない。どうしてあの子たちは楽しそうにお話ししているのか?私は好きな本をひとりで読んでいる方が、よっぽど楽しいのに。

 幼稚園ではいつもひとりぼっち。誰も私に声をかけない。仕方がないので、柱を背にしてひとり物語を作ってぶつぶつ言ってみたり、歌を歌ったりしてやり過ごしていた。

 唯一のお友達は「ピーコちゃん」。彼女、黄色いお洋服を着ていて、赤い目をしていた。私とは少し見かけが違ったけど、ひとりぼっちの私の相手をしてくれた。ピーコちゃん、時々私の指を噛んだけど。どうやらピーコちゃんが「セキセイインコ」だというのを知ったのは、後で図鑑を読んだから。

 当時の母は、どうも私の様子が周りの子たちと違うと思っていたらしい。でも小児科に相談に行ったら、「頭が良いんでしょう」で済まされたって。

 確かに私は2歳ごろから字が読めて、ひとりで本を読んでいた。まだオムツをしているのに本をスラスラ読んだもんだから、周りの大人たちは仰天したらしい。

 1歳8ヶ月の時には、ひとつ下の弟が風呂場で溺れているのを母に報告したらしい。言葉はその頃からずいぶん達者だったようだ。

 幼稚園には馴染めないまま、ついに「チック」や「場面緘黙」まで引き起こしてしまった。私の心は相当病んでいた。

 その頃、運良く父に転勤の話が持ち上がる。引っ越し先は東京から日本一時間がかかる場所、高知県西部の土佐清水市だった。家の近所の保育園に入ることになる。

 受け持ちの先生がとても私に良くしてくださり、チックや場面緘黙の症状は無くなった。絵を描くのが得意だった私は、先生に絵の才能をよく褒められた。「これは遠近法を使って描くがで」周りの子たちに教えると、皆がこぞって真似をした。

 その頃の私は、いくつか習い事をしていた。ピアノ、公文式、硬筆、絵画教室などなど。ピアノはどんな課題でも難なく弾きこなし、公文式は小学3年生の教材をやっていた。英語にも触れ、簡単な挨拶くらいは出来た。

 ついでに言うと、ピアノは小学校1年生の時ソナチネを弾いてコンクールで最優秀賞を取り、公文式は高進度者のメダルを2回もらった。絵画教室の作品でも優秀賞の大きな表彰状をもらった。要するに、私は何でも出来る器用な子どもだったのである。

 ちなみに当時の好きな音楽は九九の曲。弟と共に5、6歳で九九はマスターした。好きな漫画は、母が借りてきた「三国志」。あとは手塚治虫の作品などもよく読んだのを覚えている。とても保育園児とは思えないが、それだけ周りと感覚がズレていたのだろう。

 保育園では先生に得意なことを褒められたおかげで、自分に自信がついた。うまく周りの子どもたちと関われるように、さりげなく配慮してくれたので、まるで天国のようだった。

 ところが、小学校にあがると。途端に登校を渋るようになった。授業は分かりきったことばかりで退屈だし、友達はいない。むしろ空気のように扱われ、仲間はずれにされていた。他人とうまく関わることが出来ない私は、またもひとりぼっちになってしまった。

 そんな時、再び父の転勤が決まる。高知市にある元の家に帰ることになった。そこから私はリスタートしようと決心し、なんとか学校に順応しようと必死で努力した。

 その頃の小学校と言えば、体罰や見せしめが当たり前のようにはびこっていた。言われのない担任からの暴力に耐えたり、「猫足さんは誰とも関わろうとせずにひとりの世界に閉じこもって云々」などというお説教を、みんなの前で立たされて聞いたりした。

 「学校は死んでも行かなければならない」そんな考えが一般的だったように思う。私もどんなにいじめや嫌がらせがあっても、笑顔を作って登校し続けた。誰も私の味方になる人がいなくても、孤独に戦い続けた。

 小学5年生の時、学習塾に入ることになる。高知県は地方ながら中学受験が盛んな土地だ。というのも、大学進学のためには私立の中学校に行かないと難しかったからだ。それほど公立と私立の差が開いていた。

 父も母も親戚も私立校出身である。何の疑問も無く中学受験に向けての準備がスタートした。くだらない学校の勉強より、塾の授業はずっと刺激があり面白かった。「志望校」に「偏差値」、なぜか「螢雪時代」みたいな言葉も覚えた。

 塾でも比較的成績が良く、常にランキングの常連だった。塾の先生に勧められて「英才特訓教室」に入ったのもこの頃である。上位50人を集めた少数精鋭の教室だった。

 そんな教室を勧められたのは誇らしかったが、トップ校を狙うライバルたちと土日を押して勉強するのは、段々負担になってきた。ついに身体が動けなくなり、結局教室は辞めた。その時すごくホッとしたのを覚えている。

 高知県のトップとなり、東大とか慶應早稲田とかの良い大学に入り、エリートとなって日本を引っ張って行く。そんなプレッシャーに押しつぶされたんだろう。まだ小学生で息切れしていては、この先どうなるのか。ともかく、受験した学校は合格し、私はエリート街道を意識朦朧としながら進むことになる。

 学校の勉強は予想以上に大変だった。何より学校が遠かった。自転車で片道1時間弱。1日6時間の授業、それも1時間に教科書が30ページも進むような授業が終わったあと、予備校で補習。また1時間弱かけて家に帰ったら、今日の復習と明日の予習、テスト勉強で1日は終わる。趣味や余暇の時間はまるで無かった。

 誰がどの大学に入るか、同級生はみんなライバルである。あの人より成績が良かった、悪かった、そんな物差しで人を見ていた。仲の良い友達なんかいないし、何より私は完全に「みんな」とは何かが違っていた。「みんな」と同じようには出来なかった。

 同級生は高卒の人を見下しており、何より公立高校を見下していた。自分たちはエリートだという意識が高かったんだろう。成績重視で人間性などは二の次。地獄のような6年間だった。

 そんな環境だったから次第に勉強が嫌になり、ほとんどしなくなっていった。成績はガタガタと下がって、志望校も無難な地方の国立大にした。小学生の頃の成績から考えると、かなり偏差値を下げている。しかし、その頃の自分はもう生きているだけで精一杯だった。

 さて、志望した大学に入学後。しばらくは順調かと思えた。ところが、3年生になった頃、だんだん自分がバラバラになって行くような感覚に襲われた。

 同級生とうまくやって行けずに、トラブルばかり起こす。サークルの最中急に暴れたこともあった。講義をよく聞いておらず、みんなの前で立たされて叱責される。実習の行き先を間違える。課題をうまく聞いていなくて、違うものを用意するなどなど。最終的には自立生活すら難しくなり、食事も摂らず風呂も入らずベッドの中で何日も過ごすようになった。

 結局大学は4年で辞めた。あとわずかに単位を残して。自分の人生はこれで終わったと思った。エリートだった私はもういない。完全に落ちぶれた自分しか、いない。

 初めて精神科に通ったのはその頃のこと。最初の診断名は「解離性障害」だった。分かりやすく言えば「多重人格」である。自分がそうだとは全く思えなかったけれど、診断されたからそうなんだろうと思い、処方された薬を飲み続けた。

 次に診断されたのは「境界性人格障害」である。私って人格がおかしいのか?これも半信半疑だったけれど、診断した医師からは「怠けるな、働け」「あんたが発達障害なんてあり得ない」「働かない者は生きるな」とめちゃくちゃなことを言われ続けて、動けない身体にムチを打って生きていた。

 大学中退後、引きこもりを6年続けたが、あまりにも「働け働け」と医師から言われるので、なんとかアルバイトから始めることにした。しかしこちらは働き方など何も分からない。履歴書というものが必要なことすら知らなかった。

 その後色々な職場を転々とするが、どれも長続きせず。その頃のことは思い出したくもない。

 あれから20年の時が経った。現在の診断名は「広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)」「双極性障害」である。ちなみにWAIS-Ⅲの検査で測ったIQは130を越えていた。今はこの診断に納得している。

 現在だったら、もっと小さい頃に障害の診断がつき、療育や支援に恵まれていただろう。就労支援のための教室にも通えただろうし、ここまで身体的精神的にもダメージを受けなかったとも思う。

 今私は、就労支援継続A型事業所で、事務や軽作業の仕事に従事している。ここは特別支援学校出身の人たちも大勢いる。エリート街道まっしぐらだった私が、想像しなかった未来だ。

 私は今幸福だ。自分に合った支援を受けている。言うことを聞かないこの身体を許容してくれる場所があり、人がいる。本当に恵まれていると思う。

 思い描いた未来とは違うけれど、私自身の特性とうまく付き合うのが、この人生における課題だろう。ここまで読んでくださり、どうもありがとうございました。まだまだ書き足りないことはたくさんありますが、とりあえずこの辺りで…。

「ボルディゲラの庭」にて

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