【時には昔の話をしようか:「スカイツリー登りたいの😡」】
こんにゃちは🐈、猫月だんくるおすてうすです。
今回はタイトルの通りです😁
うちの娘が2歳の時に、
「スカイツリー、登りたい」ということで
展望台のチケットを購入したところ、
「違う!スカイツリーを(外側から)登りたいの!😡」
と要求された時の話です。
「えっ?スカイツリーを、外から登りたい⁉️😵💫」
さて、あなたならこの要望にどう答えますか?
○「スカイツリーを登りたい」―
「スカイツリーを登りたい」
突拍子もないように聞こえますよねー😅
まぁ、私の娘ですから、
そう願った背景を考えます。
思い当たるのは、その頃の娘が好きな遊びです。
出掛けた先の公園に、ツイストラダーがありまして、
本人の気が済むまで挑戦させていました。
何度か繰り返すうちに、端から端まで自分で越えられるようになったんです。
以来、いろいろなラダーや太鼓橋、雲梯に挑んでいました。
そして訪れたスカイツリー。
2歳の娘には、スカイツリーの外観が、大きなラダーに見えたのでしょう。
公園でつけた自信が、「登りたい😊💭」
の欲求を衝き動かしたのでしょうね。
要望の背景を察した私は、
「おー、そうか」と納得できたのです。
たしかに、スカイツリーの外装を登れたら楽しいだろうなぁ♫
それは、大人でも共感できるものでしょう。
さてさて、とはいえ実際に登るのは、早々にできそうもありません。
建築業会に入って、修繕の担当にでもなればできるかも知れませんが…
娘は、“今”登りたいわけですからね。
どうやって解決したものでしょう😓
○“自我の芽生え”―
ちょっと、話を変えます。
当時の娘は、いわゆる「イヤイヤ期」の入口に差し掛かった頃でした。
「イヤイヤ期」というのは、“自我の芽生え期”になります。
1歳後半から、徐々に“自我”が芽生えてきます。
自我というのは、自分の他人の違いに気づき、
“自分“の理解が深まっていくことです。
新生児期は、それこそ保護者と一心同体のように生活していたのが、
自分で歩行し始め、食事などの生活動作が伸びてくる中で、
「あれ?自分とお父さん・お母さんは、違うんじゃない?」と気付き始めます。
まず、身体の大きさが違う。
できること、できないことが違う。
物事の理解度が違う。
ヒトは未熟児の状態で生まれてきますが、
1歳になる頃に、やっとその状態を抜け出します。
仔馬が生まれてすぐに立ち上がり、乳首に吸い付く状態を、
1年かけて身に付けるわけです。
1歳になって大きく変わるのは、
大人と対等の存在になることです。
「え?1歳が大人と対等?」と思われるでしょうか😁
もちろん、子どもができることには限りがあります。
身長や手足の長さが違う
身体操作の巧みさが違う
経験の量が違う
持ち得た知識量が違う…
ただ、大人との違いはそれだけです。
“自我の芽生え”は独り立ちの入口です。
一人の個人として尊重される経験が積み重なれば、
成人した時も一人前の一人として社会で活躍できるでしょう。
翻って、自我の芽生えの時期に尊重されなかったら???
それは「自分は無能😢」という枷を負うことになりかねません…。
だから、この時期の子どもの発想は、
できる限り受け止めてあげたい。
100%とはいかないまでも、
その想いや願いを尊重して、関わりたいですね。
【相手の関心事に、関心を寄せよ】
とも言いますし。
少なくとも可能性は一緒に考えてあげるのが、
大人の努めだと思います。
◯「できる?」「できない?」―
新幹線開発にも携わった、島秀雄さん(1901-1998年)の言葉です。
「できない」と言い切るためには、
世の中にあるあらゆる可能性をすべて発見し、
その上で「できない」事を証明しなければならない。
そこに労力を費やすくらいならば、
「できる」可能性を見つける方が早い。
と、島さんはインタビューに応えていらっしゃいました。
私は、保育の中でもこの言葉を心懸けていて、
そう易々と「できない」と口にすることは避けています。
言うにしても、
「お~…それは、なかなか難しいね😅」ですね。
実際、子どもから無理難題を求められることはあります。
例えば、ボールを高く放り投げて欲しい。
「あの飛行機に当たるくらい高く投げて」とかね(笑)
実際には届かないわけですが、ものは試しです。
できるだけ高く(園庭のフェンスを越えないように)両手で放り投げます。
子どもは、全力で試してくれたことに納得します。
その上で、「今度は(自分が)やるから見ててね」と試し始めます。
でも、その時には飛行機に当たるかどうかなんて二の次です。
ボールをとにかく高く投げようと、
時にはボールを思い切り自分の顔面にぶつけたりしながら、
自分の全力を発揮することに夢中です。
私は傍で、
「♪でっきるかな でっきるかな」
と、某番組のイメージソングを口ずさんでます😙🎵
子どもが求めていることは、
できるかできないかではなくて、
「そうありたい」思いの受容です。
子どもの、言葉での表現と、
実際に思い描いているイメージとは、
結構ズレています。
良いんです。
幼児期の子どもの頭の中は、“おてて絵本”なのですから。
イメージできたことを、とにかく楽しみたいのです。
「できる」か「できないか」は、
答えが無くて良いんです。
◯で、スカイツリーは登れたの?―
やっと話が戻ってきました🤣
娘は、私が展望台のチケットを購入したことにご立腹💢です。
そりゃそうですよね、
娘からしたら、
「エレベーターじゃなく、自分で登りたい」
のですから。
エレベーターに乗ったら、目的は達成できません。
「そうか、外から登りたかったのね」
「そうだよね、ソラマチ(スカイツリー基部にあるショッピングモール)から
(スカイツリーの)足が見えるもんね」
自分の要望が通じたことには、納得した様子です。
「大丈夫、登れるから」
と娘とエレベーターへ乗り込みます。
『登れる』と言質が取れたので、
娘も嬉しそうにエレベーターへ乗り込みました。
ここからは、知っていたかどうかの話です。
これ以前にも一度、私と娘はスカイツリーへ登ったことがありました。
その時に、スカイツリーの柱が、展望室を貫くように造られているのを見ていました。
展望室から風景だけを眺めていたら、気付かなかったかも知れません。
何と言いますか、保育士のクセですね(笑)
子どもにとって危なそうな箇所や、隠れてしまいそうな場所を、
それとなくチェックしてしまうんです。
(ここ、年長児とか登りそうだなぁ…😲💭)と覚えていました。
そこへ娘を連れて行ったのです。
「え?登らせたんですか?!」
って思いました?😆
娘は、しがみついただけです(笑)
でも、それで満足しました。
「スカイツリー、登れた!!」って。
2歳児の「登る」ですから、言葉でイメージのすべてを表してはいないでしょう。
きっと、スカイツリーの白い柱にタッチするだけでも、十分だったのだと思います。
それが、しがみついて写真まで撮れたのですから、
収穫としては💮だったのではないでしょうか(希望的観測)
念のため、「上(特別展望室)まで登る?」と確認しましたが、
「帰ろ👧」でした(笑)
ということで、
もう一つの目的、ソラマチのプラレールを見て、帰路につきました。
ということで、「スカイツリーを登りたい!」の話は、おしまいでーす。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
子どもから、「それはムリ😫」って要求、
されたことありませんか?
ありますよね(笑)
それが叶うかどうかはさておき、
叶えようと向き合うことは、できると思います。
ステラ🌟獲得のご褒美に、犬を飼うよりは簡単でしょう?
(何の例えだwww)
(某 ✕ FAMILYだな)
大人は、ついつい”結果”に目が向きがちです。
でも、子どもにとって大事なのは経過と、
大人が自分を肯定してくれたかどうか、です。
“自我の芽生え期”に、大人が自分の想いを肯定してくれたなら、
「自分は肯定できる存在である」と認知していくでしょう。
そうですね、“自己肯定感”を育むという話です。
こういう経験をどれだけ蓄積できるかが、
最終的にその子の人生の礎になっていくということです。
だから、軽々に「それはできないよ」と口にするのは、はばかられますよね。
仮にその場では達成できないのだとしても、
可能な限り試して、
その上で別の見通しを提示したり、
代案を一緒に考えることは、
しても損は無いと思いますよ。
否定したら、可能性が潰えるだけですから。
それは、子どもの可能性を狭めるだけです。
「今は」できないにしても、「いつかは」できるように、
可能性の種だけは、撒いておきたいですね🌱
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