この記事には「内容」がない
だるい。
なんだか今朝は身体も気分もやたら重い。
いつもなら朝は4時か5時には起きるのだが、今朝は6時過ぎまで起き上がることができなかった。
まあ、6時過ぎでも十分早いと言えば早いのかもしれないが。
本当は、できることなら、何もしないでずっと寝ていたい。
でも、目が覚めてくるにつれて頭の中が騒がしくなってきたので、おとなしく寝ていることができない。
できれば何もしたくはないのだが、実際に何もしないでいると落ち着かなくて辛くなるのだ。
そんなわけで、「落ち着かないから、とりあえずなんかしよう」と思って、noteを書き始めた次第だ。
ただ、書くことが全然思い浮かばない。
このところ毎日投稿してきたので、書くネタが尽きてしまったらしい。
どんなに無内容なことでもいいので、書ければ書きたいのだが、そもそも言葉そのものが浮かんでこない。
まるで頭の中で目詰まりを起こしているみたいに、思考がストップしてしまっている。
なんでもいい、何か書くことはないか…。
そういえば、昨日の昼ごはんはカレーだった。
カレーは「国民食」と言ってもいいほど広く愛されている料理だが、私も大好きだ。
昨日の昼にカレーが出ることは数日前からわかっていたので、私はとても楽しみにしていた。
実際に食べると、やはりうまい。
昨日一番幸せだった瞬間は、間違いなくカレーを食べていた時だったと思う。
しかも、私の通っている作業所の昼食代はたった100円。
わずか100円でカレーをお腹いっぱい食べれたのだ。
これが幸せでなくてなんだろう。
また、私は作業所で「よく食べる人」という認識になっていて、食べきれない人は私の皿に自分のご飯を分けに来る。
「自分の分も食べてくれ」というわけだ。
だから、昨日もカレーを追加で分けてもらって、私の皿は大盛。
大満足で私は食べた。
欲を言えば福神漬けが欲しかったところだが、なにせ100円なのだし、あまり贅沢は言えまい。
うむ、いい感じに無内容な文章が書けた。
この調子でいこう。
でも、考えてみれば、いつも書いている文章だって大して内容があるわけでもない気がする。
他人からしたら「どーでもいいようなこと」ばかり書いている。
特に面白いことも書いてないし、役に立つことも書いていない。
じゃあ、面白くて役に立つ文章が「内容のある文章」ということになるのだろうか?
そもそも「内容」があるとか無いとかっていうのは、いったいどういう意味なのだろうか?
少なくとも、雑誌や本に載せられるような文章は、面白くて役に立つものが求められるだろう。
面白くもないし役にも立たない文章は、どこの出版会社だって掲載したがらないはずだ。
なぜなら、そんなことをしても、紙とお金が無駄になるだけだから。
じゃあ、面白くもなく、誰の役にも立たない文章は、書かれるだけ「無駄」なものなのだろうか?
私はそうは思わない。
というのも、なんであれ「言葉にする」ということそれ自体が意味を持つ場合があるからだ。
たとえば、苦しい時には「苦しい」と言うだけで楽になることがある。
抱え込んでいた想いを言葉にすることで、その重荷から解放されるわけだ。
また、嬉しい時には「嬉しい」と言うことで、よりいっそうその嬉しさを意識しやすくなる。
「今日はこんな良いことがあった」と言葉にするからこそ、その喜びが記憶と心に定着するのだ。
たとえ誰にも読まれることがなかったとしても、ただ言葉にするだけで、本人の心には影響がある。
決して「無駄」になんかなっていない。
たとえ他人からしたら無価値で無内容だったとしても、「書かれる意味がない」とは必ずしも言えないのだ。
…と言う私が書いたこの文章には、果たして「書かれる意味」があったのかどうか。
「他人に読まれる意味」はあんまりなかったかもしれない。
だって、結局は私の独り言みたいなものだから。
でも、「他人に読まれる意味」はなかったとしても、「私にとって書いた意味」はいくらかあった気がする。
なぜなら、この文章を書いたことで、「たとえ無価値で無内容な文章であったとしても、自分が書きたきゃ書けばいい」と心が決まったからだ。
「つまらない」とか「無内容だ」とかいったことを気にして、書きたいことが書けなくなってしまってはもったいない。
noteはもっと自由な場所だと私は思う。
好きに、自由に、書いていいのだ。
ということで、今日書いて思ったこと。
やっぱりカレーは美味い。
以上。