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苦しみに支配されたくなかったら、苦しみと直面する勇気を持つこと

風邪をひいてしまった。
頭痛がして寒気がし、その後、熱が37度5分くらいまで上がった。
スポーツドリンクを飲んでひたすら寝たらよくなったが、なかなかしんどかった。

こうして病気などすると、自然と身体に意識がいく。
身体の痛みやしんどさなどに意識がフォーカスし、そればかりが気になってしまうのだ。

これは思考や感情においても同じだろう。
たとえば、自責や後悔の念などに苛まれていると、「自分はなんてダメな人間なんだ…」「あんなことをしなければ…」といった思考を無意識に反芻してしまい、頭の中がそれでいっぱいになる。
また、怒りや悲しみに囚われている時にも、心は怒り一色・悲しみ一色になってしまい、他のものは入ってこない。
自分の中で何かがうまくいっていない時、私たちはそこへ意識を向け、その「上手くいっていない部分」に取り込まれてしまうのだ。


◎「同化」している時はどうかしている

こういった状態を、私は「同化」と呼んでいる。
「痛みへの同化」、「苦しみへの同化」だ。

「同化」している時、私たちは痛みや苦しみ以外のものが目に入らなくなってしまう。
自分が今何をしているのかもよく自覚できなくなり、無意識に行動するようになる。

たとえば、仕事帰りにその日した失敗を思い返して落ち込んでいると、周りの景色も見えないし、自分の身体も意識しない。
気がつくと家に帰りついていて、どうやって帰ってきたのか覚えていなかったりもする。
身体は無意識に動いてくれるのだが、周囲への注意力がなくなるので、思わぬところで事故に遭いそうになることもあるだろう。

このように、痛みや苦しみと「同化」していると、私たちは周りが見えなくなってしまう。
自分が感じている痛みや苦しみが「全世界」になってしまって、それ以外のものが閉め出されるのだ。

だから、「同化している時はどうかしている」と私はよく言う。
実際、痛みや苦しみと「同化」している時というのは、いつもと違った意識状態になっていて、思いもかけない失敗をしたりすることがあるものだ。

また、痛みや苦しみに取り憑かれていると、精神的にもおかしくなっていく。
痛みや苦しみと一体化し、そればかり意識する中で気分が落ちていくこともあれば、反対に激しくのたうち回ることもある。
いずれにせよ、冷静な判断はできなくなり、私たちは人が変わったようになってしまうのだ。

◎瞑想も「同化」の前では役に立たない

痛みや苦しみと「同化」すると、私たちはよりいっそう苦しくなる。
痛みはよりいっそう痛く感じられ、苦しみはもっと大きくなる。

だから、往々にして私たちは自分が感じている痛みや苦しみに圧倒されてしまう。
あまりにも痛みや苦しみが激しく大きいように感じられるので、それらに対して自分が小さく無力なように思えてくるわけだ。

こういった「同化」を打ち破るには、痛みや苦しみと一体化してしまうことなく、そこから距離を取ることが大事だとよく言われる。
痛みや苦しみが生じると、私たちは無意識に「痛みや苦しみそのもの」になってしまうが、そこで「痛みや苦しみが自分に起こっている」とだけ認識するように努めるわけだ。

たとえば、もしも怒りが起こったら、「怒りそのもの」になってしまうのではなく、「怒りが自分に起こっている」ということに覚めておく。
そうすることによって、怒りに飲み込まれたり、怒りに圧倒されたりすることなく、我を失わずに自覚を保つことができる。

だが、そんなことはあくまで「理論上」のことだ。
現実には、内側で痛みや苦しみが燃え盛っているまさにその時に、そこから距離を取ることは容易ではない。
私たちは簡単に痛みや苦しみと「同化」してしまい、精神的にどうかしてしまう。

瞑想の実践は、こういった「同化」を打ち破る効果が少しはある。
たとえば、自分の呼吸に意識を向けて、内側の思考や感情を観察する練習を積むならば、痛みや苦しみにも「同化」しにくくなるだろう。
痛みや苦しみから距離を取って、それらを落ち着いて観察することができるようになっていくわけだ。

だが、私は経験的に断言するが、いくら瞑想を実践しても、本当に苦しい時には「同化」を避けることはできない。

私は過去に激しい怒りに苛まれていた時、瞑想によってそれを静めようとしたことがある。
だが、瞑想しようとすればするほど、かえって怒りは燃え上がり、まったく集中できなかった。

結局、瞑想をすることで余計に苦しくなってしまい、数時間の格闘の末、私はついに諦めた。
「自分は全くの無力であり、怒りの前では為す術がない」と思ったのだ。

◎苦しみをコントロールしようとすれば、逆に苦しみに支配される

「同化」することは苦しい。
なぜなら、「同化」すると、自分が「苦しみそのもの」になってしまうように感じられるからだ。

そして、私たちはそういった痛みや苦しみを何とかして解消しようとする。
いわばそれをコントロールしようとするわけだ。

だが、それはおこがましいことではないだろうか?

痛みや苦しみは完全にコントロールすることができない。
それらは不意に私たちを襲い、嵐の中で私たちの心身を切り刻む。

結局のところ、私たちは苦しみを苦しむより他にない。
苦しみは避けることができず、どこかで直面するしかないものなのだ。

瞑想によって痛みや苦しみと「同化」しないことが仮にできたとしても、それは痛みや苦しみとの直面を巧妙に避けることに繋がっていくような気が私はする。
それは、痛みや苦しみから目を逸らし、自分自身を誤魔化してしまうことではないかと思うのだ。

痛みや苦しみと「同化」する時、私たちは自分を見失う。
だが、覚悟を決めて痛みや苦しみと向き合えば、私たちが滅ぼされることはない。
痛みや苦しみには、私たち自身を破壊する力はないのだ。

また、苦しみを苦しみ抜く覚悟を決めることによって、私たちは苦しみに支配されなくなる。
そもそも、苦しみを避けようとするから、私たちは苦しみによってコントロールされることになるのだ。

苦しみが自分の進路上にあった時、もしそれをいつも避けようとしたならば、私たちは「自由」であることができない。
苦しみを避け続けようとすればするほど、当人の選択肢は狭まっていき、やがては苦しみによって自分の人生を支配されるようになってしまう。

私たちは、苦しみをコントロールしてなくそうとするが、そのコントロール欲求があるために、かえって苦しみにコントロールされる。
苦しみを避けようとしてもがき、そこから逃げようとするからこそ、苦しみに支配されてしまうのだ。

◎苦しみと直面することで、私たちは何かに勝利する

「苦しみは苦しむしかない」と腹をくくるのは、けっこう大きなターニングポイントなのではないかと思う。

そもそも、苦しみを避けようとしている限り、私たちの中には「苦しみへの潜在的な恐れ」が存在し続ける。
苦しみを恐れている間は、「苦しみがやってきたらどうしよう」と絶えず怯えていなければならなくなるし、苦しみの前で為す術がない自分に無力感を覚えもするはずだ。

だが、「来るなら来い、私には苦しむ用意がある」と宣言すれば、苦しみは私たちを支配できなくなる。
なぜなら、「苦しむ用意」がある人は、苦しみがやってくることを恐れないからだ。

もしも苦しみがやってきても、苦しみから目を逸らしたりしない。
その時、当人はただシンプルに苦しむだけだ。

だが、「シンプルに苦しむ」というのはけっこう難しい。
というのも、私たちはいつも「逃げ道」を探すからだ。

「この苦しみを消すにはどうしたらいいのか?」と試行錯誤し、「こんな苦しみが自分を襲うのは間違っている!」と言っては憤慨する。
現実には苦しみが目の前にあるのに、それを認めようとしないのだ。

だが、「逃げ道のない苦しみ」というものがこの世にはある。
それは、どんなに避けようと思っても避けることができず、どんなに誤魔化そうと思って抑え込んでも、かえって奥から噴き出してくるような苦しみだ。

そういう苦しみを前にしたら、諦めてその苦しみを苦しむことだ。
私たちには、他にできることは何もない。

そして、覚悟を決めて苦しむなら、その苦しみが時間とともに消えていくのを目にするだろう。
どんな苦しみも永遠には続かない。
時間とともにそれは弱まり、やがては消えてなくなってしまう。

その時、私たちは満身創痍だが、確かに何かに勝利したのだ。
何に勝ったのかはわからないが、少なくとも苦しみに対しては負けなかった。
「苦しみの言いなり」になって惨めに逃げ回ることをよしとせず、果敢に立ち向かったのだ。

反対に、苦しみに怯え、「逃げ道」を探しまわっている時には、私たちは何かに負けている。
そういう時、私たちは「苦しみの奴隷」だ。
苦しみを避けるためなら何でもし、どこまでも「苦しみとの直面」を避けようとするのだ。

人間、負けっぱなしは悔しいものだ。
苦しみと直面するのは苦しいことだが、「負けっぱなしの人生」をひっくり返すためには、どこかで人は苦しみと向き合う必要があるだろう。

◎勇気をもって宣言する

痛みや苦しみが現れると、私たちはそれと「同化」する。
それは避けることができない。

だが、それにもかかわらず、私たちは苦しみを避けようとしてジタバタする。
そうしてジタバタするので、余計に痛みや苦しみが深くなるのだ。

本当に苦しくて仕方ない時には、ジタバタするのをやめてみる。
「この苦しみは避けようがない」と諦めて、真正面から苦しむことだ。

その時、苦しみは自然と消えていく。
苦しみは、実際に苦しまれることによって成仏していくのだ。

このように、苦しみというのは避けようとしないことによって、かえって避けることができる。
苦しみを避けようとすればするほど、苦しみは自分の中で力を持ち、いつまでも延命するようになるが、もしも覚悟を決めて向き合うなら、苦しみは力を失い、消えていくのだ。

苦しみに支配されるだけの人生は生きづらい。
「苦しみを避けること」が至上命題になってしまうと、いつもびくびく怯えていなければならなくなる。
なぜなら、生きる上で苦しみは不可避だからだ。

「苦しむこと」を受け入れると、「生きること」も受け入れられるようになる。
「生きることの不可解さと不確実性」を、そのまま受け入れられるようになるのだ。

生は予見不能だ。
次の瞬間に何が起こるかは誰にもわからない。
だからこそ、私たちはみんな不安を感じるし、「苦しみがいつやってくるだろうか」と怯えてしまうこともあるわけだ。

苦しむことは、人生が持つ「味」の一つだ。
「苦味」のない人生はない。
「人生から苦味を一切なくしたい」と思うことが、むしろ新たな苦しみを生み出す結果を招く。

苦しみをなくすためにジタバタするのは、思い切ってやめてしまおう。
苦しみは、思い切って直面してみれば、それほど苦しくは感じないものだ。
苦しみを避けようと思って必死になっている時には、苦しみはこれ以上ないほど巨大なものに思えるものだが、実際にはそんなに大きくない。
苦しみは、私たちより小さいのだ。

苦しみを大きくするのは、私たちの想像力だ。
「自分は苦しみには敵わない、苦しみを前にしたら逃げるしかない」と思うから、苦しみは大きく膨れ上がるのだ。

苦しみと真正面から向き合えば、「苦しみは思っていたほど大きくなかった」とわかるだろう。
「自分で勝手に恐れていただけだった」と気づくはずだ。

でも、向き合う直前まで、苦しみはこれ以上ないほどの強敵に見える。
だから、勇気が必要になる。

「自分はこの苦しみを受け入れる」と宣言する勇気が。