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「外側のルール」と「内側の規範」

「道徳」と「倫理」という言葉がある。
どちらも「人として守るべき規範」といったような意味で使われている。

じゃあ、どっちも同じ意味なのかというと、微妙にニュアンスが違う気がする。

たとえば、「道徳教育」という言い方はするが、「倫理教育」という言い方はない。
つまり、「道徳」は教えることができるが、「倫理」は教えることができないということだ。

「道徳教育」の場においては、「これをしてはいけない、あれをしてはいけない」とか、「これをしなければならない、あれをしなければならない」とかいった具合に、無数の「べき」「べからず」が列挙される。
「お年寄りには優しくしましょう」とか、「ゴミはごみ箱に捨てましょう」とかいったように、非常に具体的な「教え」が説かれるのだ。

確かに、それだったら教えることができる。
なぜなら、従うべき「ルール」を外から決めて、それを押し付ければいいだけだからだ。

しかし、私たちが事の善悪を判断する時、いつもいつも「外側のルール」に従っているかというと、そうとも限らない。

たとえば、私たちは困っている人を自発的に助けてあげることがある。
そういう時、私たちは別に「困っている人は助けてあげないといけない」と教えられたからそうするわけではなく、ただ「力になりたい」と思うから助けるだけだ。
いわば、「助けねばならない」から助けているわけではなく、「助けたい」から助けているわけだ。

「道徳」は外側から規範を注入するが、それとは別に、私たちには「内側の規範」がある。
哲学者の池田晶子あきこさんは、こういった「内側の規範」のことを「倫理」と呼んでいる。

外なる規範としての道徳は、常に、「べき」とか「せよ」とか「ねばならぬ」等の規則や戒律の形を取る。したがって、それを行為する者は必ず強制や命令として感じられるものだ。これに対して、内なる規範としての倫理は、たんに「そうしたい」という自ずからの欲求である。

池田晶子著 『あたりまえなことばかり』 株式会社トランスビュー発行

「道徳」はいつも具体性を伴った「べき」「べからず」のリストとして示される。
だから、行為者は「善いことだとされているからする」とか、「悪いことだと教えられたからしない」とかいったように、言われた通りに動くロボットのような反応をすることになる。

だが、「倫理」は具体的に示すことができない。
「どう生きることが倫理的なのか?」は、各人が自分自身で感じ取るしかなく、リストにして提示することができないのだ。

そう書くと、「倫理」というのはあやふやで当てにならないもののように思えるかもしれない。
だが、「道徳」のほうがよっぽど当てにならないものだ。
「道徳」は時代によって簡単に変わるし、状況によってもしばしば180度真逆にひっくり返ってしまう。

たとえば、平和な時には人を殺すことは「悪いこと」とされるが、戦争時には人を殺すことは奨励される「善行」になる。
「殺人」という極端な事例についてさえ、「道徳」は答えをひっくり返す。
それは「普遍的なもの」では決してなく、移ろいやすいものなのだ。

それに対して、「倫理」というのは当人の中で深く感じ取られた善悪の規範だ。
そして、「倫理」は時として、移ろいやすい「道徳」に反して、一貫した答えを示す場合がある。

どこで読んだか忘れてしまったが、戦争に行った人の手記で、敵兵を撃つのをためらった時のことを書いているものがあった。

さっきも書いたように、戦争中は「敵を殺すこと」が「善」とされる。
「道徳」は兵隊に「殺せ」と命じてくるわけだ。

その手記を書いた人も、言われるままに敵兵を殺していた。
戦争中はそれが「正しいこと」であり、なすべき「善」だったからだ。

だが、ある時その人は、銃口を向けた先の敵兵の顔を見てしまう。
それは、赤みがかった頬をした年の若い兵隊だった。

今まさに殺されようとしているその若い兵隊は、怯えた視線で見返してきた。
お互いの目と目が合ったまま、一瞬の間があった。

手記を書いた人は、その瞬間、引き金を引くことができなくなったと言う。
どうしようもなく「殺したくない」という感情が湧いてきてしまったのだ。

相手の顔には「殺すな」という言葉がはっきりと表れており、それはまた自分自身の心の声でもあった。
外側の「道徳」は「殺せ」と命じてくるのに、内なる「倫理」は懸命に「殺すな」と訴え続けていた。

「殺してはいけないから殺さない」というのは「道徳」であり、「殺したくないから殺さない」というのが「倫理」だ。

「道徳」の上に乗っかっているだけの人は、「道徳」自体が「殺すこと」を奨励し始めたら、ためらわず人を殺すようになるだろう。
だが、「倫理」はそう簡単にひっくり返ることはない。
「殺したくない」という感覚は、そうやすやすと塗り替えられるものではないのだ。

しかし、同時に「倫理」はいつも微妙に揺らいでいる。

外側に「従うべきルール」が見つからない時、私たちはいつもその「揺らぎ」の中で選択する。
何が「善いこと」で何が「悪いこと」なのか、誰も代わりに決めてくれない時、私たちは迷いながら、考えながら、一つの答えを選び取るのだ。

だが、そうしたことは骨が折れる。
だから、誰もが多かれ少なかれ「善悪」の判断を他人に委ねている。

実際、「善悪」を全部誰かが決めてくれたほうが楽ができる。
自分で考える必要はないし、その答えに責任を負う必要もない。
道に迷うこともなく、独りぼっちになることもない。
「同じルール」に従う人々が、いつでも自分を支持してくれる。

対して、「倫理に従う」ということは、「考えることや感じることを放棄しない」ということだ。
それは、ロボットのように「与えられたルール」に従うことをよしとせず、あくまでも自分の内側に「答え」を求めることなのだ。

基準を、外側ではなく内側に持ち、自分の選択に責任を持つこと。
それが「倫理的に生きる」ということではないかと私は思う。