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「チット(意識)」と「アーナンダ(至福)」の関連性について

今回は瞑想の話。

真理には「サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)」という3つの側面があるが、前回はその中でも「チット(意識)」について書いた。

今回は、「チット」についてもう少し深掘りした上で、「チット(意識)」と「アーナンダ(至福)」との関連性について書いてみたい。

それでは、いってみよう。


◎「本当の自分」は自我の「手前」にいる

そもそも、私たちは普段、自我に振り回されながら生きている。
自我は多くの欲望を持っていて、「あれが欲しい、これが得たい」といつも私たちをせっついてくる。

だが、「本当の自分」は自我の「手前」にいる。
自我は「本当の自分」ではなくて、「本当の自分」がこの世界で生きるための「仮の衣装」みたいなものだ。

このことに気づいてしまうと、自我の言いなりになって駆けずり回るのがバカバカしくなってしまう。
結果、「人から認められたい」とか、「特別な何かを成し遂げたい」とかいった願望や欲望が弱まっていき、人生そのものを俯瞰して見るようになる。

だが、それだけでは足りない。
というか、余分だ。

なぜなら、「チット」について悟っても、特に何が変わるわけでもないからだ。

◎あっけなさすぎる「悟り」

「自我は本当の自分ではない」ということがわかっても、あいかわらず人生は続いていく。
生きていくうえでは自我の働きは必要で、生活の中であれこれ感じたり考えたりすることは変わらない。
ただ、そういった物事に第一義的な重要性を感じなくなるだけだ。

「チット(意識)」について悟ったところで、超能力が使えるようになるわけでもなければ、突然別人のように生まれ変わるということもない。
本人としては、「自我は本当の自分ではないとはわかったけれど、だから何?」という感じだ。

しかし、多くの場合、「瞑想のゴール」はこの地点に設定されている。
「無我の境地」に至り、その「無我」の中にそれでも残る「我」を見出すこと。
それを「私は在る」と表現することもできる。

だが、ほとんどの探求者はそこでこう思うはずだ。
「だから何なんだ?」と。

「私は在る」ということを悟っても、人生そのものは変わらない。
「今までずっと、何かを変えるために瞑想を実践してきたのに、これが本当にゴールなのか?」と思ってしまう。
「チットの悟り」というのは、それくらいあっけなくて、何でもないものなのだ。

だが、多くの場合、師はこう言う。
「お前は悟った。よくやった」と。

実際、「サット・チット・アーナンダ」という真理の3つの側面を考慮せず、「チット」についてしか理解していない指導者の場合、「そこで探求は終わりだ」と弟子に言い渡すかもしれない。

そう言われても、本人には「何かすごいことを悟った」という実感がない。
体験してみればわかるが、それはあまりにもあっけなさ過ぎて、「え、これだけなの?」と言いたくなるような気づきだ。
実際、「私は在る」とは、それくらい「当たり前すぎる事実」なのだ。

あまりの手応えのなさに、別の教えを求める人もいるだろうし、瞑想に失望する人もいるだろう。

だが、探求はそこで終わりではない。
まだ続きがあるのだ。

◎「足りない」と同時に「余分」な状態

さっきも書いたように、「チット(意識)」について悟ると、人生のあらゆることがどーでもよくなる。
そして、それと同時に、自我が発するエネルギーが弱まり始める。

それまで当人は、自我が「もっと認められたい」と言えば、「絶対に認められるようにならねば」と駆けずり回り、自我が「特別な何かを成し遂げたい」と言えば、「何が何でも大きなことを成し遂げなければ」と必死になっていた。

ところが、「チット」を悟ると、そういった一切が茶番のように思えてきて、「特別な人間になるために頑張ろう」という意欲が減退してくる。
要は、「自我の満足のために走り回るのはバカバカしい」と感じるようになっていくわけだ。

だが、「そこで終わり」と思うなら、「生きることそのものは無意味だ」というニヒリズムに導かれかねない。
要は、「何を成し遂げたところで無意味だ。全ては虚しい」という結論に辿り着いてしまうのだ。

だから、「チット(意識)」について悟るだけでは足りない。
そしてまた、余分だ。

「真理の3つ側面のうち1つを悟っただけ」という意味で、それでは不足している。
そして、上記のような「ニヒリズム的な認識」は「余分なもの」でもある。
「余分な部分」は落とす必要があるし、「足りない部分」は補っていくことが重要なわけだ。

だが、「サット・チット・アーナンダ」という3つのうち、「サット(存在)」については、最後にしか悟ることができないとされている。
「チット(意識)」を先に悟るか、「アーナンダ(至福)」を先に悟るかは人ぞれぞれだが、「サット(存在)」については最後になる。

私自身も、「サット」についてはまだよくわかっていない。
だから、これ以降は「チット」と「アーナンダ」の関連について書く。

「チット」と「アーナンダ」にはいったいどんな関連性があるのか?
以下、解説していってみよう。

◎全てが消えた後に残るもの

ここまで書いてきたように、「チット」だけでは足りないし、余分だ。
「チット(意識)」を悟ることによって不充足感が生まれ、同時にその不充足感がニヒリズムという「余分な認識」を生み出してしまう。

このバランスを調整するためには、「アーナンダ(至福)」についても悟る必要がある。

「アーナンダ(至福)」というのは、全ての感情のベースとなっている「心地よい解放感」のことだ。
それは胸のあたりで感じられるため、「ハートの感覚」と呼ばれることもある。

それは、本当は誰の胸にも宿っているものなのだが、多くの場合、「ハートの感覚」は他の感情によって覆い隠されている。
在るには在るのだが、覆われて見えなくなっているわけだ。

「チット(意識)の道」が瞑想の実践なら、「アーナンダ(至福)の道」は感情との直面だ。
なぜなら、日常的に現れる感情を一つ一つ味わい、それらが全て消失するまで見届けた時、それでも残っているものが「ハート」だからだ。

言ってみれば、「ハート」というのは「無感情の中に残る感情(のようなもの)」だ。
あらゆる感情が沈静化した後に、それでもなくならないで残り続けるもの。
それが「ハート」だ。

このことは、「無我の中に残る我」を発見することが「チット(意識)」の悟りであることと対応している。
つまり、「あらゆる感情(怒りとか欲望とか)が消えた後に残るもの」が「ハート」であり、「あらゆる我(個性とか人格とか)を取り除いた時に残るもの」が「真我」であるというわけだ。

◎「チット」から「アーナンダ」に至る道

最終的に、「ハート」と「真我」は重なっていく。
両者は一体であり、「同じもの」を別な角度から見ただけに過ぎない。

だから、「チット(意識)」についてだけ悟った段階というのは、あたかも半身を欠いたような状態だ。
もう片方が足りていないのだ。
それが結果的には当人に不充足感をもたらし、さらにはニヒリズムを導いてしまう。

「アーナンダ(至福)」について理解すると、ニヒリズムは自然と消えていく。
なぜなら、存在していることそのものが「静かな喜び」であると理解されるようになるからだ。

これが「チット(意識)」についてだけ悟った段階では、そうもいかない。
当人は「別に何も成し遂げなくてもいいか」と思うようにはなるが、かといって何もしないでいると物足りなくなるためだ。

だが、「アーナンダ(至福)」についても悟ると、たとえ何もしないでいても胸のうちに喜びが感じられるようになる。
「何もしない」ということに、新たな意味が付与されるようになるのだ。

結果的に、当人は「あえて何もしない」ということを好むようになっていく。
なぜなら、あれやこれやを求めて走り回るより、何もしないでただ「ハート」を感じているほうが幸福だからだ。

「チット」を悟った後、もしニヒリズムに陥ることなく、その「何でもなさ」を見つめ続けるなら、「ハート」についての理解も起こるだろう。
なぜなら、「チット」を悟ると自我がジタバタしなくなるからだ。

「あれが欲しい、これが欲しい」と自我が動き回ることがなくなると、結果的に感情的な反応は沈静化していく。
そうして、感情の波が収まった時、不意にその背景となっていた「ハートの感覚」に気づくことになるわけだ。

だから、「チット」を悟れば「アーナンダ」は悟りやすくなる。
自我がおとなしくなることで、普段「ハート」を覆い隠している感情的な反応が弱まるからだ。

◎「アーナンダ」とは、あくまでも「静かな喜び」である

逆に、「アーナンダ」から始めて「チット」を悟る人もいるだろう。
感情的な反応が沈静化するのが先で、後になって「私は在る」を体験するわけだ。

私の場合、「チット(意識)」のほうが先だったので想像なのだが、おそらく「アーナンダ(至福)」を先に悟った人もまた、独特の苦しみを味わうだろう。
なぜなら、「ハートの感覚」がわかっても、自我が活発に働き続けるからだ。

私は先ほど、「ハートの感覚とは、胸のあたりに感じられる静かな喜びだ」と書いた。
これは本当にその通りの意味で、「ハートの感覚」は決して激しいものではなく、あくまで「静かなもの」なのだ。

それは「全ての感情を洗い流すようなエクスタシー」では全然ないし、「美味しいものを食べた時の喜び」とか、「映画に熱中している時の楽しさ」とかのほうが、「ハート」よりずっと強い。

それゆえ、「ハートの感覚」がわかるようになっても、そこに留まることは難しい場合が多い。
なぜなら、「もっと魅力的な感情」が世の中には無数にあるからだ。

「アーナンダ」のことを「至福」とは言うが、それは決して全てを凌駕するほど圧倒的なものではない。
それはむしろ、「何の不満もない」という消極的な意味での「満ち足りた感覚」だ。
そこには確かに安心感と心地よさがあるが、それよりも、もっと刺激的な感情を欲してしまうのが「人の心(自我)」というものなのだ。

◎「アーナンダ」から「チット」に至る道

たとえ「アーナンダ(至福)」について悟っても、「チット(意識)」について悟らない限り、自我は決して黙らない。
「これを成し遂げればもっと幸せになれるぞ」とか、「あれを得られれば大きな喜びが手に入るぞ」とか、自我はあの手この手で私たちを誘惑してくる。

そして、私たちはその誘惑に負ける。
せっかく手にした「アーナンダ(至福)」を捨てて、自我がいざなう刺激的な競争世界にダイブしてしまうのだ。

「他人に勝ちたい」
「もっと多くのものを得たい」

欲望は果てしがなく、どこまでもエスカレートしていく。
そうして、「ハートの感覚」は再び覆い隠され、自我の言いなりになって走り回る日々が続いていく。

だが、そのことに対する違和感も起こる。
「ハートの感覚」を一度知ってしまうと、「それを捨ててまで自我の奴隷になることは本当に正しいことなのだろうか?」と疑問に思うようになっていくはずだ。

その疑問が絶えず当人の意識を突き刺し、内側に分離感を生み出す。
要は、「ハート」をないがしろにして走り回ることで、「何か間違ったことをしている感覚」に苦しむようになるわけだ。

そうして、その苦しみに促される形で、当人はやがて探求の道に入ることになるのではないかと思う。
その道の中で瞑想を実践し、「チット(意識)」を悟るようになっていくはずだ。

「アーナンダ(至福)」から悟った人は、おそらくこの道筋になる。

◎まとめ

ここまで見てきたように、「チット(意識)」と「アーナンダ(至福)」はお互いに関連しあっている。

「チット」だけ悟っても、人は「全ては無意味だ」というニヒリズムに陥ってしまう。
そこには「アーナンダ」による下支えが必要だ。

逆に、「アーナンダ」だけ悟っても、「チット」についての理解がなければ、自我が暴走し続ける。
結果として、「ハートの感覚」を捨ててまで、自我を満足させるために走り続けることになってしまう。
「ハートの感覚」に自分から留まることができるようになるためには、自我の動きが沈静化する必要があり、その際に、「チット」の理解が重要な意味を持ってくるわけだ。

「チット」と「アーナンダ」は車の両輪のようなもので、両方そろって初めてバランスよく機能するようになる。
だから、どちらか片方を先に悟ると、必ずや不充足感や分離感に苛まれることになる。

「チット」を先に悟ると不充足感に苦しみ、「アーナンダ」を先に悟ると分離感に苦しむことになるだろう。

実際、「チット」を先に悟ると、「全ては無意味だ」というニヒリズムに陥り、不充足感に苦しむ。
逆に、「アーナンダ」を先に悟ると、自我が暴走し続けることで「ハートの感覚」を捨てることになってしまい、これが分離感を生み出す元になるのだ。

そして、そういった不充足感や分離感に背中を押される形で、もう片方の悟りに向かうように、結果的としてなるのではないかと思う。

◎最後に

以上、今回は「チット(意識)」と「アーナンダ(至福)」の関連性について書いた。
「チット」と「アーナンダ」のどちらから悟るかは、当人の適性(と運命)によるので、「こっちが正解」というものはない。

ただ、「最終的にどっちも必要」ということは確かだ。
「チットはわかったんだけれど、それって意味があったのかなー」と思っている人や、「アーナンダは理解できたけど、苦しみがなくなってくれないよー」という人は、もう片方の悟りを得ることでバランスが取れるので、そこまでぜひ進んでいってほしいと思う。

ということで、今回はここまで。
次回は、「チット」や「アーナンダ」について悟るために、具体的にはどんな実践をしたらよいのかを書いてみたいと思っている。

では、また次回。