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瞑想日記31:集中は助走、沈黙は滑空

瞑想継続31日目。
正月休みということで時間があったので、昨日は六時間ほど実践した。

だが、さすがに六時間もすると途中から集中力が切れてくる。
それで、集中力が切れてきたら、「集中しない瞑想」をすることにしていた。

前の記事でも書いたが、そもそも瞑想をするときは必ず「何か」に集中する。
呼吸に意識を集中するのが最もポピュラーだが、他にも眉間に集中したり、聞こえてくる音に集中したり、身体を動かしてその感覚に集中したり、いろいろな集中法がある。
そして、「意識を何かしらの対象に集中することで、湧いてくる思考を抑えよう」というのが瞑想の基本セオリーなのだ。

人は普段、無自覚な考え事で頭の中がいっぱいになっている。
しかし、そのままでは心がいつも波立っていて落ち着かないし、頭の中も静まらない。
だから、瞑想をして何かに集中することで「落ち着いた心」を取り戻しましょう、という話になるわけだ。

確かに、集中することは思考を抑えるのに有効だ。
呼吸や眉間などに集中している間は、思考が湧いてくることは少なくなる。

でも、集中するというのは、ある意味で「意志の力」を行使することだ。
「これに集中しよう」という意図が、どうしてもそこには生まれてしまう。

これが心にわずかなさざ波を立て、落ち着きを乱してしまうことがある。
「集中しよう」という意志が力みとなって、心をかえって乱してしまうのだ。

瞑想に慣れてくると、「何かに集中するまでもなく思考があまり湧いてこない」という状態になることが時々ある。
そんな風に、集中しないでいても思考に煩わされない時には、心の中はすでに静まっている。
そこにおいては、「集中しよう」というわずかな意志の力みさえもが、心に余計な「騒音」を生み出してしまうのだ。

そういう時は、あえて集中しないほうが、心の中は静かだったりする。
「集中しよう」という思いさえも手放して、そのまま坐ることに徹するほうが、心は「穏やかな状態」を保ちやすいのだ。

もちろん、思考が湧きまくっていて落ち着いていない時には、まず集中したほうがいい。
呼吸でも何でもいいが、とにかく集中することで思考を抑えるのが先だ。

でも、ある程度思考が落ち着いてきたら、集中するのはあえてやめてしまって、「沈黙」の中に留まったほうが良いのではないかと思う。
「集中しよう」という内心の一声さえも、そこでは「沈黙」を破るものとなりかねないからだ。

そういう意味では、集中は「助走」みたいなものなのではないかと思う。
たとえて言えば、ハンググライダーで離陸するための「助走」だ。

私はハンググライダーはやったことがないから想像だが、助走もなしにいきなり飛び上がることはできないだろう。
まず最低限の助走をつけて、それから飛び上がって滑空するのではないかと思う。

瞑想でも同じで、いきなり「沈黙」の中に入っていくことはできない。
集中によって「助走」をつけることで思考を鎮め、それから「沈黙」の中に飛び込んでいくのだ。

ハンググライダーの滑空って、けっこう気持ちよさそうだけれども、瞑想で「沈黙」に留まる時も心地よい感覚がする。
そして、ハンググライダーの滑空が風向き次第でうまくいったりいかなかったりするように、瞑想における「沈黙」もマインドの動き次第で急に終わってしまう。
静かだった心に、急に思考が湧いてきたりすることもあるからだ。

いずれにせよ、助走をつけて滑空や沈黙という「特殊な状態」に入っていき、それを保つようにするという点が、ハンググライダーと瞑想はよく似ているように思う。

繰り返し言うが、集中は「助走」だ。
本当の目的は、「沈黙の中に入っていくこと」であって、集中はあくまでもその前準備に過ぎない。

そう考えると、集中することにいつまでも固執するのは、「助走だけして飛び上がらない」ようなものだ。
でも、それでは「助走」ではなくて、単なる「ランニング」だろう。

もちろん、「ランニング(集中すること)」を続ければ、集中力は鍛えられるかもしれない。
でも、「黙ること」は覚えられない。
助走だけして飛び上がらない人が、滑空の仕方を覚えられないのと同じように。

そんなこんなで、「集中しなくても瞑想というのは成り立つのではないか」と、最近は思い始めた。
重要なことは「沈黙を保つこと」であって、「集中し続けること」はその準備手段に過ぎない。

集中することに固執しなければ、瞑想はもっと自由になる。
そんな気がする。