「最小限」に縮こまることなく、「最大限」に生きる
昨日、夕方ごろに近所の公園に行って踊ってきた。
このところ、狭い自宅の中で踊っていたので、もっと広い場所でのびのび踊りたかったのだ。
芝生の上で裸足になり、気の向くままに動いた。
腕を上げてみる。
身体を傾けてみる。
足を踏みしめてみる。
そういった一つ一つの動きが、大きな空の下でおこなうと、実に気持ちよかった。
ただ、公園で即興舞踊をしている人間は、当たり前だが、私のほかには一人もいなかった。
公園にいた人はそれほど多くなかったが、他の人たちは犬の散歩に来ていたり、子どもを遊ばせに来ていたりした。
中には私のほうをチラチラと見る人もいた。
グネグネとわけのわからない動きもしていたので、「変な人」扱いされていたかもしれない。
まあ、その辺は私の自意識過剰かもしれないが、日本社会では「みんなと違うこと」をすると「変な人」扱いされてしまうのは事実だと思う。
今回は「『変な人』扱いされてもいいから、もっと身体を動かそう」ということを書いてみる。
私たちは無意識に身体の動きを縮こまらせているが、それは良くないと思うからだ。
◎思い切り身体を伸ばしてみる
さっきも書いたが、今の日本社会では、「周りと違ったこと」をすると白い目で見られる傾向が強い。
たとえば、人口過密の都心のビジネス街ではみんな黙って歩いている。
そんな中では、自分だけ立ち止まることはマナー違反だ。
歩くスピードさえも周りに合わせないといけない。
そうでないとぶつかってしまうからだ。
都心のビジネス街に限らず、私たちは人目を気にしている。
たとえ楽しくて気分がウキウキしていても、人のいるところではむやみに笑ったりはしない。
なぜなら、何もないのに笑っていると、「頭がおかしい人」だと周囲から思われかねないからだ。
また、仮に身体が凝っていたとしても、人前で伸びをすることはない。
みんな黙って歩いていたり仕事をしていたり勉強をしていたりする中で、突然自分だけ身体を伸ばしたりしたら、周囲から浮いてしまうからだ。
そもそも「身体を伸ばす」ということをとことんやったことのない人も、世の中にはたくさんいる。
人前で好きに身体を伸ばすことができないので、無意識に動きを抑制する癖がついてしまっているのだ。
だが、もしも本気で身体を伸ばしたら、そこには解放感と心地よさがある。
試しに一度やってみてほしい。
まず、立ち上がって両足の裏を踏みしめ、その反動を利用して身体を上に伸ばしていく。
大地からエネルギーを受け取るようなイメージだ。
そして、両腕を天に突き上げながら背をそらし、身体が「気持ちいい」と感じる方向へ手を伸ばしていく。
「気持ちいい」と感じる方向はその時々で違うので、機械的に手を真上に上げたりはしないようにし、絶えず微妙に手を動かしながら「より気持ちいい方向」を探ると良い。
ひとしきり伸ばし終わったら、一気に脱力して息を吐く。
おそらく、伸びをしている間は無意識に息を止めていたはずだ。
内側に溜まった疲れを一緒に外に吐き出すようなイメージで、口から息を吐いてみよう。
たったこれだけのことでも、身体は深くリラックスする。
だが、私たちは普段、ここまで本気で身体を伸ばすことがない。
それは、周りの目を気にして動きを小さくする癖が染みついてしまっているからだ。
◎全身全霊であくびをする
猫が眠りから覚めた時、身体を大きく伸ばす姿を見たことがあるだろう。
猫は人間の目など気にしない。
いつも全身全霊で伸びをする。
そうすることによって、身体を一気に活動体勢に持っていくことができるのだ。
だが、人間は猫のように全身全霊では伸びをしない。
それは、私たちが周囲から逸脱しないように、身体の動きを無意識に抑制してしまっているからだ。
あくびも同じだ。
あくびは特に人前では抑制される傾向が強い。
もしも相手が話している途中であくびなんてしようものなら、「マナー違反だ」と思われてしまうだろう。
それゆえ、ほとんどの人があくびを抑え込んでいる。
身体を伸ばすのは意識的な運動だが、私たちはこれを無意識に抑え込んでいる。
対して、あくびは無意識的な運動だが、私たちはこれを意識的に抑え込む。
どちらにしても結果は同じだ。
身体は小さく縮こまり、内側に解放できないエネルギーを溜め込んでしまう。
そうして私たちの身体は生命力を失い、活き活きすることができなくなるのだ。
もしも人目が気になるならば、自宅に一人でいる時にやってみる。
大きく身体を伸ばしてみて、その心地よさを感じてみる。
あくびとあわせてやってみるともっといい。
猫があくびをする時の様子を見習って、身体全体を巻き込むぐらい大きくあくびをしてみるのだ。
「あくびをしよう」と思いながら口を大きく開けると、あくびが誘発されてくる。
そうしたら、それにあわせてさっきやった身体の伸びをとことんやってみる。
「ふあぁ~」と大きく口を開けてあくびをしながら、全身全霊で身体を伸ばしてみるのだ。
身体が気持ちのいいように、身体が求めているように、内側に溜まったエネルギーを思う存分解き放ってやる。
そうすると、あくびや伸びが終わった時には、心身共にスッキリしているはずだ。
◎私たちの社会は「最大限の動き」を許容しない
私たちの身体というのは、「最大限の動き」をしないと、「最小限の動き」に収まっていってしまう傾向がある。
しかも、自分自身ではそのことに気づかない。
「自分は身体を縮こまらせて生きている」ということに気づかないまま、身体を無意識に抑え込んで生活するようになってしまうのだ。
私たちの社会は相互監視の社会だ。
ちょっとでも異質なもの、周りと違うものは拒絶され、異分子として排除される。
排除まではされなくても、白い目で見られることは避けられない。
それゆえ、私たちは身体の動きを抑え込む。
それは、「身体を小さく抑え込んでいる状態」が今の日本社会の「普通」だからだ。
だが、これは明らかに「不健康」なことだ。
猫のように伸び伸びと身体を動かすことをせず、むしろ「最小限の動き」しか身体に許さない状態が「健全」であるわけがないのだ。
もちろん、年がら年中「最大限の動き」をしていたら目立って仕方ないだろうが、せめて家に一人でいる時くらいは、精一杯に伸びをして、身体全体であくびをしよう。
身体を解放することができれば、生命力が戻ってくるのが内側で感じられるはずだ。
◎「楽」ではなくて「快」をこそ求める
全身全霊で身体を動かすと、そこには「快」の感覚がある。
「快楽に身を任せてはならない」と一般的には教えられるが、「快」と「楽」とは分けて考えたほうがいい。
「快」は身体が求めるものだが、「楽」は頭が求めるものだ。
頭は「面倒くさいこと」や「手間のかかること」を避けて、「楽」をしようとする。
それは、頭が効率主義だからだ。
十分な「リターン」が見込めなかったり、「メリット」が少ないように感じると、頭は「それはする必要がない」と判断する。
そういう時、主観的には「面倒くさい」と感じるものだ。
これは頭があれこれ計算して、「そんなことはやる必要がない」と私たちに訴えてきた結果なのだ。
今の日本社会は、「楽」をしようと思えばいくらでも「楽」ができる。
手間のかかることを避けて、受動的な娯楽にふけり、酒やギャンブルなどに依存することで、身を持ち崩していってしまう人は多い。
それは「楽な生活」ではあるが、「楽なこと」ばかりを続けると、私たちの心身は「ハリ」を失ってふやけてしまう。
それはちょうど生温かいお風呂にいつまでも浸かっていたことで、かえって身体がだるくなってしまうようなものだ。
心身の「ハリ」は「楽なこと」を続けている限り取り戻せない。
私たちの心身には「弛緩」だけでなく、「適度な緊張」も必要なのだ。
頭は「楽」ばかり求めるが、身体は「楽」よりも「快」を求める。
なぜなら、「楽」は心身から「必要な緊張」を奪ってしまい、身体そのものの生命力を減退させるということが、身体にはわかっているからだ。
「手間のかかること」や「面倒なこと」であっても、それを頑張ってやっていると、そこには「快の感覚」が生じる。
私たちがスポーツをするのも、それが大きな理由の一つだろう。
身体を目一杯に動かすことは決して「楽なこと」ではないが、身体的には清々しく、爽快感さえあるものだからだ。
身体を「最小限」に抑え込まず、「最大限」に使う機会を持とう。
ただ伸びをしたりあくびをしたりするだけであっても、身体全体を巻き込めば、「快の感覚」は感じられる。
「楽なこと」をするのではなく、「快いこと」をする。
それが私たちの心身に「ハリ」を与え、生命力を活き活きと溢れさせてくれるカギなのだ。