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「瞑想的な生活」とはどんなものか?

最近、瞑想についての記事を書いていなかったが、瞑想的な生活は続けていた。
思考少なめで、内側の穏やかな心地よさを大事にして過ごしていた感じだ。

「それならさぞかし心静かに暮らしているのだろう」と思われるかもしれないが、必ずしもそうとは限らない。
「じゃあ、実際はどうなのか?」ということになるが、今回は、私の瞑想的な日常生活の実態について語ってみようと思う。
瞑想を日常生活に持ち込むことに興味がある人は読んでみてほしい。
(ちなみに、今回の記事は6500字ほどある長文だ)


◎集中は日常生活に持ち込むことができない

まず、大前提から確認していこう。
今までの記事でも書いてきたことだが、日常生活の中に持ち込める瞑想は一つしかない。
それは、「集中することなく思考のない静かな状態を保つこと」だ。

普通、瞑想をするときには何かに集中する。
呼吸に集中したり、眉間に意識を集めたり、ゆらめく炎を凝視したり、一心にマントラを唱えたりするわけだ。
そして、そうやって何かに集中することによって、無自覚に湧き続ける思考を抑制しようとする。
無数の思考によって取っ散らかった頭の中を片付けることが、瞑想のひとまずの目標となるわけだ。

だが、日常生活の中で集中し続けることは非常に困難だ。
誰しも生活の中では「考えねばならないこと」や「しなければならないこと」がたくさんあるから、瞑想にだけ意識を向けていられるわけではないからだ。

たとえば、炎を凝視したり、マントラを唱えたりする瞑想の場合は、日常生活の中でおこなうことは不可能だろう。
また、呼吸や眉間に集中する瞑想にしても、家事や仕事の中で何か作業をしているうちに、気が逸れて呼吸や眉間のことなんて忘れてしまうに違いない。

ただ、「マインドフルネス瞑想の場合は、そうでもないんじゃないか?」と思う人が中にはいるかもしれない。
なぜなら、マインドフルネス瞑想では、特定の集中する対象を定めず、今ここで自分がしている作業に集中するからだ。
たとえば、道を歩いていれば足裏の感覚に意識を向け、食事をしていれば味覚に意識を向け、皿洗いをしていれば指に触れるお皿の感触に意識を向ける。
それだったら、「していること」と「集中している対象」がずれないので、「生活の中で継続できるのでは?」と思うわけだ。

だが、私は過去に何度も試したことがあるので断言できるが、人間の集中力というものには限界がある。
「今ここに集中しよう」とし続けることは、数日の間ならできるかもしれないが、長期間にわたって継続できるものではない。
もし仮にできたとしても、そんな「絶え間のない集中」を実践していたら、気の休まる時がなくなってしまい、心穏やかに落ち着くことができなくなってしまうだろう。

そもそも私たちが瞑想を実践するのは、そんなアスリートみたいな人生を送りたいからではなく、安らぎとは何かを知りたいからなのではないだろうか?
しかし、集中することに固執すると、安らぎはむしろ遠ざかってしまう。
「心の平安」を求めるならば、どこかで集中は手放さなければならないのだ。

◎瞑想的な日常生活には「自然な瞑想状態」が必須

じゃあ、どうやって集中を手放したらいいのか?
これについても、今までの記事で何度か書いてきたが、改めて述べておこう。

そもそもなんで集中が必要だったかというと、何かに集中していないと思考が湧いて止まらなかったからだ。
つまり、あくまでも無自覚に湧き続ける思考を落ち着かせるための方便として、集中力を使っていたに過ぎないわけだ。

大事なことは、思考が静かになって落ち着いている状態(=瞑想状態)を保つことであって、集中することではない。
もちろん、思考がどうしても落ち着かないときは集中することが役に立つが、思考が既に静かになっているならば、わざわざ集中する必要はないのだ。

瞑想の実践をある程度の期間にわたって続けていくと、思考の量は減っていく。
そして、ある段階で、わざわざ集中するまでもなく思考が湧いてこない状態に留まれるようになる。
そこまで行ったら、もう「修行としての瞑想」はゴールに到達したと思っていい。
それは、瞑想状態(=思考のない静かな状態)が自然なものになったということを意味しており、そしてまた、「集中から卒業する準備」が整ったということでもあるのだ。

ここまで到達して初めて、生活の中に瞑想を持ち込むことができるようになる。
ここから先は、「修行としての瞑想」は終わりを告げ、生活の中で瞑想をすることになるのだ。

もしも「修行としての瞑想」が終わっていな場合、瞑想状態が自然なものになっていなので、思考を抑えるために絶えず集中することが必要になるだろう。
そして、それには意図的な努力が必要であり、強い意志の力が求められるが、そんな状態をずっと維持することは到底できない。
もし仮に生活の全ての局面において努力し続け、絶えず意志を行使し続けていたら、早晩心を壊してしまうことだろう。

しかし、瞑想状態(=思考のない静かな状態)が自然なものになっていれば、意図的な努力も意志の力も必要なくなる。
何か特別なことをしようとする必要はなく、ただ瞑想状態で過ごせばいいだけだ。
そして、それこそが瞑想的な日常生活というものなのだ。

◎思考のニュートラルポジションは「静かな状態」

前置きの説明だけでだいぶ話が長くなってしまったが、とにかく、瞑想的な日常生活というのは、これといって特別なものではないということを私は言いたかった。
瞑想状態が一度自然なものになってしまえば、別に努力は必要ないし、「何かをしよう」という意図も必要なくなる。
瞑想状態を維持しながら、ただ当たり前の日常を過ごすだけだ。

ということで、「では、その実態とはどんなものなのか?」という最初の話に戻ろう。

さっきも書いたが、瞑想的な日常生活においては、なるべく瞑想状態(=思考のない静かな状態)の中で生活する。
だが、生活していれば考えなければならないこともたくさんあるし、仕事や家事の難しい局面では、意志の力や集中力を行使しなければならないこともある。
いつもいつも瞑想状態でいられるわけでは、もちろんない。

だが、そんな風に仮に思考していたとしても、心のベースには「静かな状態」がある。
「無数の考え事が湧いて止まらない」ということはほぼなく、「考える必要のあることをその時だけ考えて、考え終わったらまた無思考に戻る」といった感じだ。
だから、考え事をしている時も頭の中は割とクリアだし、思考に圧倒されることはなく落ち着いている。

また、「無自覚な考え事に巻き込まれて我を失う」ということもないので、基本的にいつも自覚(瞑想業界風に言えば、気づき)がある。
「自分が今何をしているか」ということに対して自覚的で、無意識的な言動に振り回されることも少ない。
もちろん、無意識にしてしまう「癖」なんかはなくならないのだが、そういった「癖」に対しても自覚的になるので、「ああ、またやってるわ」と気づいて途中でやめることができるのだ。

こんな具合に、思考面については「静かな状態」がベースになっていて、考える必要のある時だけ考えるが、考え終わったらそのベースに戻るという感じで生活している。
つまり、「思考のない静かな状態」が私にとってのニュートラルポジションになっており、「帰っていく場所」になっているのだ。

◎感情のニュートラルポジションは「穏やかな心地よさ」

では、思考面だけでなく、感情面ではどうか?
たとえば、瞑想をすると感情に振り回されなくなるというが、本当にそうなのか?

確かに、瞑想の実践を続けると、ある程度は感情的な反応が沈静化していく。
だが、感情的な反応そのものが消失することはない。
理不尽な目に遭えば憤りを感じるし、辛い想いをすれば悲しくもなる。
瞑想をすれば、そういった自分の感情を距離を取って観察できるようになっていくが、感情がそもそも発生しなくなるわけではないのだ。

瞑想的な日常生活においても、感情的な反応は起こる。
だが、それらの感情的な反応は一時的なものだ。
喜怒哀楽の感情は永続するものではなく、時間が経てば消えていく。
そして、後には「穏やかな心地よさ」だけが残るのだ。

そういう意味では、感情面においても、思考面と同じようにニュートラルポジションが設定される。
思考面のニュートラルポジションは「思考のない静かな状態」だったが、感情面でのニュートラルポジションは「穏やかな心地よさ」だ。
それは、何の感情もない状態、つまりは無感情であり、「最も当たり前の状態」だ。

だが、そこには決して何もないわけではなく、「穏やかな心地よい感覚」がある。
それは、感情が消えた「無」の中に、いつも必ず現れてくるものなのだ。

普通、人は「感情がなくなったら何も感じない」と思うものだが、実際には違う。
なぜなら、いかなる感情的な反応も起こっていない時、そこには確かに安らぎがあり、穏やかな解放感があるからだ。

そして、この「安らぎ」、「穏やかさ」、「解放感」が感情的なニュートラルポジションとなる。
生活をしていれば様々な感情が湧き起こってくるが、それらの感情は時間が経てば消えていく。
そして、感情が消えた後に戻る場所が、「安らかで穏やかな解放感」なのだ。

◎それは「ハートの感覚」と呼ばれる

ちなみに、この感覚はスピリチュアルの世界では「ハートの感覚」として知られている。
それは実際、胸のあたりに感じられるもので、穏やかでどこか懐かしい感覚だ。
それは私たちが生まれてきたときに感じていたであろう「原初の感覚」であり、私たちみんなの「ふるさと」なのだ。

また、「ハートの感覚」は太陽にたとえられることもある。
そして、感情というのは「ハートの感覚」という太陽を覆い隠す雲みたいなものだ。

雲(感情)は一時的に現れて空を覆い、太陽(ハート)を見えなくしてしまう。
だが、感情が沈静化すれば、雲は消え、再び太陽(ハート)が姿を現す。

太陽(ハート)は消えたわけではない。
それは感情によって一時的に見えなくなっていただけなのだ。

このことは、瞑想的な日常生活を続けていくと、だんだんと理解できるようになっていく。
つまり、「感情というのは現れては消えていく儚いものであって、『ハートの感覚』こそが消えずにいつも在るものなのだ」ということが、はっきりとわかるようになっていくのだ。

だが、普通は「感情のほうが永続的で、ハートなんて感じたこともない」という認識を持つものだ。
実際、苦しみの渦中にある時には、自分が味わっている苦しみには終わりがないように見える。
もしも太陽(ハート)なんて見たことがなく、雲(感情)にばかり取り巻かれて生活していたら、どうしてもそう思えてしまうだろう。

だが、太陽(ハート)は実在しており、それは無感情の中にある。
そして、この「ハートの感覚」が、瞑想的な日常生活における感情的なニュートラルポジションになるのだ。
つまり、現れては去っていく一時的な感情の波がベースなのではなく、穏やかで心地よい無感情(ハートの感覚)こそが、「帰っていく場所」であるということだ。

◎瞑想的な生活を送ると、ニュートラルポジションが切り替わる

話を一度整理しよう。
まず瞑想的な日常生活に入るためには、集中するまでもなく瞑想状態(=思考のない静かな状態)を保てるようになる必要がある。
もしも集中し続けねばならないとなったら、絶え間ない努力と意志の行使が必要になるので、それでは生活の中で実践することはできないからだ。

集中しようとすることなく思考のない状態を維持できるようになったら、「修行としての瞑想」は終わり、瞑想的な生活へと入っていく。
そして、この思考のない静かな状態が、瞑想的な日常生活における思考面でのニュートラルポジションになる。
考える時には考えるが、考え終わったら無思考に戻っていくわけだ。
つまり、思考するのは一時的で、あくまでベースは無思考ということになる。

そして、感情面におけるニュートラルポジションは「ハートの感覚」だ。
それは感情が消えた後、無感情の中で現れる「穏やかな解放感」のことだ。
瞑想的な生活を送っていても、感情は起こり続けるが、どんな感情もやがては消える。
そして、感情が消えた後に戻っていく場所が「ハートの感覚」であり、なくなることのない私たちの「ふるさと」なのだ。

考えてみれば、「瞑想的な日常生活を送る」というのは、自分にとってのニュートラルポジションの切り替えをおこなうことと言えるかもしれない。
たとえば、普通の人の場合、「思考や感情がある状態」のほうをニュートラルポジション(当たり前の状態)だと思っているはずだ。
だが、瞑想的な日常生活をしていると、徐々にこのニュートラルポジションが切り替わっていく。
自分にとってのニュートラルポジションが、「思考や感情がある状態」から「無思考・無感情」へと移っていくのだ。

上のほうでも書いたが、たとえ瞑想的な生活を送っていも思考や感情は湧いてくる。
だが、瞑想的な生活をある程度以上送っている人は、それらの思考や感情があくまでも一時的なものだとよく知っている。
ニュートラルポジションは「無思考・無感情」にシフトしており、「仮に思考や感情が湧いてきても、最後は無思考・無感情へと帰っていく」ということがわかっているのだ。

◎瞑想的な生活者には「帰るべき我が家」がある

このように、瞑想的な日常生活と言っても、特別なところは何もない。
もしも特別な点があるとしたら、「ニュートラルポジションが切り替わっている」というところだけだろう。

そういう意味では、私の生活は非瞑想的な生活をしている人と大して違わない。
思考もするし感情的な反応も起こるからだ。

だが、それらは決して永続するものではないと、私は知っている。
どんな思考も感情も必ず終わる。
そして、それらが消えた後に帰っていく場所こそが、「本当の我が家」なのだ。

瞑想的な日常生活を送る人には、「我が家」がある。
帰ろうと思えばそこに帰ることができ、中に入って落ち着くこともできる。
そこには、懐かしく穏やかな解放感があり、満たされた幸福感がある。
もちろん、時には思考や感情が湧いてきて「我が家」から外に出ることもあるかもしれないが、最終的にはその「満たされた感覚」の中に帰ってくることができるのだ。

それに対して、世の中の多くの人は、私の目には「我が家」を見失っているように見える。
「帰る場所」がわからないまま、思考や感情の波に翻弄され、途方に暮れてしまっている人もいるだろう。
そして、「心の平安」を求めて、外側の世界を駆けずり回ることになるのだ。

「社会的に成功すれば幸せになれる」と思う人もいるし、「素晴らしいパートナーと結婚すれば幸せになれる」と思う人もいる。
だが、「本当の幸せ」は外側ではなく内側にある。
それは、外側の状況に依存しない幸福感であり、今ここで静かにするだけで感じることのできるものなのだ。

瞑想的な生活を送っている人とそうでない人との違いは、「それを知っているか・いないか」という点にあるのかもしれない。
「本当の幸福」は内側にあり、ちょっと振り返ればそれを見つけることができる。
私はそれを知っているし、そのことがわかっているおかげで、人生を虚しいと思うこともなくなった。

だが、それ以外に私には特別なところは何もない。ごくごく普通の人間だ。
超能力も使えないし、仙人みたいな暮らしをしているわけでもない。
たぶん私の周りの人たちも、私が瞑想的な生活を送っているということには気づいていないだろうと思う。
だって、本当に「普通の暮らし」をしているからだ。

そう考えると、私みたいに静けさや穏やかさを大事にして瞑想的に暮らしている人というのは、目で見てわからないだけで、実はけっこういたりするのかもしれない。
いつかそういう人と出会えたら、いろいろ語り合ってみたいものだと思う。