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インソムニア

 眠れない夜は、散歩に出る。

 日付が変わる少し前から、一時間。しっかり歩いて体が疲れれば、少しは眠れる。

 散歩の行き先は、海に面した公園だ。

 シャッターが閉まって静まりかえった商店街を、地面のタイルを数えながら歩く。人に会うことはほとんどない。

 店が途切れ、むかし海岸線だったという通りに出る。その道を渡ったところが公園だ。芝生の広場と、噴水と、バラの植えられた花壇と、海に面して並んだベンチがある。

 海といっても、波の寄せる海岸ではない。ベンチに座って眺められるのは、狭い港と、その向こうに広がる埋め立て地の工場の群れだった。

 海に面した公園は、百年前に起こった大きな地震の瓦礫を埋め立てて造られた。数年前に行われた地質調査で、レンガや陶器の破片がたくさん見つかったらしい。

 建物、日用品、生活のなかのかたちあるもの。誰かが必要としていたものだったはずなのに、ある日突然すべてがゴミになって、ここに埋められた。

 今の公園に、瓦礫を見ることはない。地中で眠っている百年前の暮らしの痕跡を、感じることもない。

 瓦礫は、ここに埋める必要があったのだ。大きな地震を乗り越えた人たちが、すべてを手放して、新しく、前を向いて生きていくために。

 ベンチに座って、しばらく海を眺めて、来た道を戻って家に帰る。油と潮の香りが入り混じった体をごしごし洗って、ベッドに入る。

 心地よい疲れで、すぐに眠れたときには、夢を見る。

 夢のなかでもう一度、散歩に出かける。

 眠る前と同じように、シャッターの閉まった商店街を、地面のタイルを数えながら歩いて、海沿いの公園へ行って、ベンチに座って海を眺めて、家に帰る。体についた油と潮の香りを水に流して、ベッドに入ると、運がよければ朝になって目が覚める。運が悪ければ、夢のなかでまた散歩に出かける。目が覚めて朝になっていたら、もう散歩には行かなくて済む。

 でも、また夜が来る。眠るために、散歩に出かけることになる。

 繰り返しているうちに、どの散歩が現実で、どの散歩が夢のなかだったのか、曖昧になってきた。

 現実でも、夢でも、家に戻れるならいい。もしも戻れなくなったら、どこへ行ってしまうのか。夢のなかに、閉じ込められてしまうかもしれない。だから、決して寄り道することはないし、ほかの道も選ばない。家から公園へ。公園から家へ。地面のタイルだけを見て、公園から海だけを見て、同じルートを行って、帰る。

 それなのに、夏の終わりが近づいたころ、繰り返されていた散歩の、夢のなかが変化しはじめた。

 商店街がタイル敷でなく砂利道になっていたり、海に沿った通りの向こうに公園がなくなっていたりした。

 変化していたら、それは夢のなかだとわかった。不安になったら、すぐに引き返して家に戻る。違った世界を見てみたいけれど、家に帰るべきだと、自分のなかで自分が言う。

 その日の散歩も、夢のなかだった。商店街の先に海沿いの公園はなかった。急いで家に戻ろうとしたら、女性に声をかけられた。

 現実でも、夢のなかでも、眠るための散歩で誰かに声をかけられたのは、これが初めてだった。

「おさんぽですか?」

 やわらかい声が言う。

 二十歳くらいだろうか。古めかしい着物姿をしている。

「はい。ね、眠れなくて」

 正直なことを言ってしまって、少し焦った。女性は、くすっと笑った。

「私、最近この近くに住み始めて。そのホテルのすぐ裏です」

 海沿いの大きな建物に目をやると、暗闇にぼんやりと灯りが見えた。

「いいところですね」

「はい、とても。海も近いですし」

「こんな夜になぜひとりで?」

「夫が帰ってくるのを待っているんです」

 女性の顔に、寂しさが見え隠れする。

「早く帰ってくるといいですね」

 海を眺めながら、そんな言葉を交わした。家に帰ってからも、女性の顔が目の前にちらついた。

 目が覚めて、朝が来た。

 その日の夜、また散歩に出た。それは現実の散歩らしく、商店街の地面のタイルも、その先の海に面した公園も、確かにそこにあった。

 ベンチに座って、夢のなかで会った女性のことを考えた。

 あの夢は、この公園の過去だったのだろうか。夢のなかで、海に面した公園がなかったのは、瓦礫で埋まる前、大きな地震が起こる前の景色なのかもしれない。

 あの女性は、百年前に生きていた人なのだろうか。

 地震で亡くなったのか。

 瓦礫のなかを生き延びたのか。

 それとも、ただのまぼろしだったのか。

 家に帰ろうと立ち上がると、公園の入り口に人影が白く浮かびあがった。

 もう日付が変わろうかという深い時間だったから、ほかに人がいるのはめずらしい。

「おさんぽですか?」

 声をかけられた。若い女性だ。白いワンピースを着ているが、顔を見てはっとした。あの女性だった。夢のなかで会話をした、着物姿だった女性だ。

「はい。眠れなくて」

 とっさに出て来たのは、夢のなかと同じことばだった。

「私、最近この近くに住み始めて」

 沈んだ声が冷たく答えた。

「そのホテルのすぐ裏だったのですが、家がないんです」

 女性の瞳から、大粒の涙がひとつ、流れ落ちた。

「夫が帰ってくるのを待っているんです」

 女性の瞳から、もうひとつ、大粒の涙が流れ落ちる。

「あの人が、帰ってこないのです」

 崩れ落ちそうな女性の肩に手をやると、氷のように冷たかった。

「いっしょに、待ちましょうか」

 女性は、海のほうをぼんやり眺めて、小さくうなずいた。

 女性の家は、きっと瓦礫として、この公園の地下深くに埋まっている。

 女性の言う、あの人は、きっともう帰ってこないだろう。

 ここで待つことにした自分は、家に帰れるだろうか。


                         (おわり)

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