人格を統合していくことについて:そして、「性別化の式」について

『分割された意識』という本を私は購入した。

以前、このブログで取り上げた。それは、大学図書館で読んだのだが、まだ自分が買っていなかったものになる。
それを買ったことで自分の状態に対してより言葉になっていくのではないかと思っている。
私は自分の状態について、何らかの仕方で意識が分割されていると考えている。「男性の意識」と「女性の意識」に分割されている。
そして、それぞれ「私的領域」と「公的領域」に対応しているように感じられる。(※このことが女性の身体を生きている人を傷つけないことを願っているのですが。)
その意味で、自分は自分の性的なアイデンティティ(とりわけ言語的なまた文化的なもの)は公的領域においては、とりわけ社会人としての話し方(つまり言語的な性別)においては女性に近いと思っているが、私的領域においては男性であると認識している。(※この点において、ラカンの「性別化の式」において、「女性の論理式」を自分は通過しているのではないか、だから象徴的な言語の切り出し方が女性に近いものとなっているのではないかと思っている。)
その問題について、杉浦郁子さんという方の次の論文は私の思考を少し手助けしてくれた。

そのなかで、「真の同性愛」について、これは他の人の議論を引きながらであるが、カップルの片方が男性化した女性のケースというものが取り上げられている。

「女性同性愛」は一時的・精神的・後天的でいずれ「異性愛」に向かっていく「仮性」と、男性化した女性による永続的・肉欲的・先天的で矯正できない「真性」とで構成される、という枠組みである。

杉浦郁子「「女性同性愛」言説をめぐる歴史的研究の展開と課題」和光大学現代人間学部紀要8号、 12頁

「男性化した女性」というキーワードに私は少し惹かれるところがあった。このことについて触れるために、少し迂回をしよう。

さて、私は、安冨歩さんという方が論じている「魂の脱植民地化」ということについても興味を持っている。安冨さんは本條晴一郎さんという方とともに、次の本で人格の分離と多言語性を関連させて次のように論じている。https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784334033996


安冨さんと本條さんは、例えば香港のようにマルチリンガルが一般的な国では、公的な領域において英語という外国語を話す人格と、私的な領域において広東語という母国語を話す人格とに人格が分離している事例というものが存在しており、それについて論じているのである。

香港は一九九七年までイギリスの植民地であった。それ故に現在でも、私的な空間では母国語である広東語で、公的な空間では外国語の英語で話すことが少なくない。香港人、特に知識人の中には、植民地体制によって魂とインターフェイスが切り離されてしまった人たちがいる。
そして、魂と切り離されたインターフェイスに、異なる二つの言語が実装されているので、広東語の人格と英語の人格が分離している。
〔…〕これは多言語性による人格の分離の例であり、香港に限らず、それ以外の植民地体制下の人々の間でも同様のことが起きていると考えられる。植民地体制でなくとも、ハラスメントを強く受けた人間の中に、使用する言語ごとに人格が分離している例が見つけられる。
もちろんマルチリンガルだからといって、一人残らず人格が分裂しているというわけではない。魂とインターフェイスがスムーズに接続し、常に自分の感覚に基づいた表現をするならば何語で話していても同一の人格である。

安冨歩 本條晴一郎 『ハラスメントは連鎖する:「しつけ」「教育」という呪縛』光文社新書、218-219頁

母国語と外国語ということで言うと、私は奈良生まれで、関西弁が母国語のようであるのだが、標準語については外国語のように習得したところがあった。私は母国語(関西弁)を話す自分は男性そのものであったのに、外国語(標準語)を話す自分はなぜか「脱男性化された性」を生きている感じがしてしまう。その意味で、自分の男性性はとても脆く、あるいは私は自分が男性であると感じている時でさえ、「男性化された女性」でないかというような妄想に近い観念を持つようになることもあったのである。もちろん妄想に近いということもないかもしれない。実際に、自分は身体が男性のようになることをどこかで拒絶しているところもあって、体重はとても気になるし、自分の身体が男性化していく兆候があったらそれをブロックしたいと思うところもあったのである。

いずれにせよ、私は確かに公的な人格(前にも言ったかもしれないがそれは中高時代の自分(学校での自分)を通して養われた人格がベースになっている)と私的な人格(主に家庭内での自分、そして大学の学部時代の自分の人格がベースになっている)があるという分離を生きているのだと思われる。

その分離があるが故に、精神的に辛くなることがある。
この文章はGoogle音声入力のように話しながら書いているものである。
話している自分の方が書いている自分よりも信用できるのではないか、ということを気にするのは、例えば、ジャック・ラカンが『エクリ』以外はほぼ話された言葉による講義録に彼の公刊物がなっていることを想起すると、他の人も感じうることなのかもしれない。

一般にネットではその人を前にした時には言えないような言葉を言ってしまうことに問題があるのではないかと思う。
ネットではtele-presence(遠隔-現前)があるということはあると思われるが、その遠隔-現前の性質ゆえに、対面とは異なるオーダーで人と接してしまえるので、その点で私の場合のような人格において何らかの分離があると感じている人にとっては、「本音の自分」(=柴山雅俊理論で言うところの「眼差しとしての私」)が「建前の自分」(=同理論で言うところの「存在者としての私」)を越えて、言葉になり始めるということがあるのではないかと思っている。(※例えば、『思い出のマーニー』のなかで、主人公の杏奈が女子のグループに対して言ってはいけないことを言ってしまう場面があるが、それを想起すると「本音の自分」が「建前の自分」を越える場面というものを想起できるのではないかと思われる。https://www.ghibli.jp/marnie/introduction/

人格の分離というところで古典だと『ジーキル博士とハイド氏』が想起されるだろう。
そのなかで、ジーキル博士の供述書のようなものが最後に掲載されているが、その供述のなかでジーキル博士=/ハイド氏は次のように述べている。

〔…〕わたしは自分の快楽を人に隠すことを始め、分別のつく年齢に達して四囲の情況をも観察するようになり、栄達と社会的地位を仔細に検討し始めた頃には、既に甚だしい二重生活の深みに陥っていたのである。多くの人は、わたしの犯したような不行跡をかえって誇示するでもあろうが、わたしは自ら目標として立てた高邁な見地から、ほとんど病的ともいうべき羞恥感をもってこれらの行為を眺め、かつ、これを隠蔽したのである。そのような人間にわたしがなったのは、わたしの欠点がとくに下劣だったためではなく、むしろかえってわたしの理想の厳しさのためであった。かつわたしが、人間の二重生活を分離結合する善と悪の精神領域を、おのれの内心で一般世人よりも遥かに深い溝で断ち切らざるを得なかったのも、そのためであった。

スティーヴンソン 『ジーキル博士とハイド氏』 田中西二郎訳、新潮文庫、90-91頁

このように善と悪の領域を断ち切らざるを得なかったのが、ジーキル博士=/ハイド氏の事例である。
このジーキル博士=/ハイド氏の事例を踏まえたうえで、私のなかでそこまで善と悪という風にはなっていないと信じているのだが、いわば公的人格と私的人格がいわば内弁慶かのように二分化され構成されていることを思春期の頃には既に感じていた自分は、安冨理論が指摘するように魂と分離したインターフェイスが2つのパッケージを生きるかのように、二分化された人格を内的に生じさせていたのかもしれない。

そして、その人格というものは、公的人格がなぜか女性の(あるいは脱男性化した)話し方を習得しているのとは対照的に、私的人格は男性の話し方を習得しているという言語の差になっている。

この人格の分離と、ジェンダーの差というものを感じている自分は、その両方を統合していく必要があると思われるのだが、一つのアイデンティティで生きられるようになるにはすごく時間がかかるかもしれないとは思っている。
(※「男性化した女性」というのは、私の場合は、公的な領域では女性化した話し方をしているのにもかかわらず、私的な領域では男性だったことを経験しているので、私にとってもリアリティある言葉であった。)

また、一つのアイデンティティで生きるのが本当に良いのかという葛藤もある。平野啓一郎さんの分人主義は、異なるアイデンティティを生きていくこと(病理的に解離となるのではなく)を推奨している。

こうしてあるいは「複数の自分を生きる」ことそのものを肯定できるようになれば良いのかもしれない。それは解離の文脈では、人格の共存という話になる。
生きていくことにある程度の自己肯定感は必要であるが、ただ魂とインターフェイスが断裂してしまうということは避けないといけない。また、異なる言語による自己のパッケージ化のようなものに自分が陥ることに対してもどこかで批判的な気持ちは持っている。
統合していくこと。異なる言語で異なる人格であっても、魂が一つになっているのであれば(自分の感覚が遮断されているのではないのであれば)、問題はないという安冨理論の指摘を私は受け止めたいと思う。

どうしたらお互いをお互いを傷つけることなく生きていけるか、それは大きな問いであるが、私はそれを心から願っている。

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