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統合失調症、そしてアイデンティティに関する障害があると診断された人が書くノート
「統合失調症」という診断が通常下されるのは100人に1人とされているけども、そのなかでも自分の場合はどういう状況か見えにくいかもしれないです。だけども、何らかの意味でその診断のなかに自分がいるということになる。そして、「統合失調症」という診断のつく過程で「解離性障害」という診断についてもつくことになっています。
この2つの障害があると今は認定されている現状です。そのなかで、自分のなかで言葉を書くうえで何らかの障害があったのかもしれません。その意味で自分自身の文章を見ることは、精神的に分割された人が書く言葉を見ていることになるのかもしれないです。
自分の言葉をどういう仕方で書いていくかということを考えるうえで、統合失調症においても言語障害はあるのだが、私の場合は、精神的に苦しんでいる人のテクストとして資料的に価値のある文章かもしれないということはあっても、自分の言葉の書き方についても自分で考えていく必要があるのだろうと思います。
こうした自分における精神障害があるなかで、自分にできることをどのようにして見つけていくかは大事なことだと思います。
障害があるということはどういう意味を持っているのかということ。
自分に障害があるということはどういう意味を持っているのかということ。
そのことで自分で悩んだりしながら、言葉のオーダーをある意味でこの国で生きていくなかで適した仕方になるように調節していく必要があるように思います。
そのことについて、自分で色々と考えています。そのことを考えていることが多いです。
自分で色々と考えて、そのなかで自分はどのように生きていくか。
その問題を考えたいと思います。
最近読んだ本のなかで、渡邉雅子さんの『論理的思考とは何か』という本が面白かったです。
色々な国のなかで、アメリカ、フランス、イラン、日本を比較して、それぞれの作文の型について、アメリカは経済、フランスは政治、イランは法技術、日本は社会のそれぞれの領域の論理にしたがって書かれているということ(詳しくは上記の本、65頁の表2-1を確認のこと)。そしてこのなかである文化に特化した文章の論理に親しんでいると、それに従っていない論理に対して「採点不能」としたり、わけもわからず怒りのようなものが湧いてきたりするということがあるけれど、このことは正直なところ自分の場合は、発達障害と言われたこともあり、このなかで日本式を採用できていたかどうか疑問があります。
私は自分の生育史が気になって、昔の作文とかを読んでいたりしたけど、中学受験の合格の作文で他の人に比べて、自分の文章が妙に幼い気がしたことが気になっています。私は作文にはトラウマがあり、それで人を悲しませてしまったことがあります。
それも結構近しい人をです。
そこに悪意はなかったけど、結果として悲しませてしまったのは事実。
面白いと思ってもらえたら良いなと思って書いたものがそうして悲しませる文章になりました。
先の『論理的思考』とは何かで、例えば日本に住んでいる人はアメリカ式の作文(エッセイと言います)の方式で、相手から「共感」を得るためではなく、相手を「説得」させるために書く文章というものを意識的に学ばないと書きにくいと感じるのではないかと思います。
良く英作文でも、最初に私の意見を述べて、その根拠をFirstly, Secondly,…という形で述べていく文章というものは、これは日本的な感想文とはスタイルが異なるということです。先にも書いたように、日本の感想文は相手から「共感」を得ること、そこに目的があるのですが、アメリカの文章は相手を「説得」することにその企図があります。
日本の作文についての説明としては、『論理的思考とは何か』の著者いわく、
社会領域のレトリックも論証の形を取らないが、ここで重視されるのは社会の構成員から「共感されるか否か」である。法技術領域に見られるような普遍的・絶対的な倫理ではなく、共同体を成り立たせる親切や慈悲、譲り合いといった「利他」の考えに基づく個々人の「善意」が社会領域の道徳を形成する。道徳形成の媒体となるのが「共感」である。
アメリカの作文についての説明としては、同じく、前掲書著者いわく、
経済原理のレトリックを代表すると考えられるアメリカの五パラグラフ・エッセイは、証拠を挙げて主張の正しさを証明し、読み手を説得することを目的とする。このエッセイの最大の特徴は、最初の段落(パラグラフ)で結論となる主張が提示されることである。
ここに差異があるということ。そして、日本で生きていくととりあえずは決めた自分は日本式の作文をちゃんと学ばないといけない。
アルバイトの志望動機でさえ、私は落とされることばかりだった自分は、文章を通して「意思疎通」をすることに何らかの困難を感じていたように思います。
これは私のなかではある程度意識しないとできないことで、だから私はメールを書くことや、手紙を書くことや、人と文章を通じてコミュニケーションを取ること全般が苦手だったんだろうと思います。
私は上記のように精神障害として「統合失調症」と「解離性障害」があり、「統合失調症」にも言語障害のようなものはあるようです。
ただ、私は「解離」ということについて結構なところ、常に「解離性幻聴」と思われる声を聴いていたり(おそらくこの病気ではない人にはこうした「別人格」の声が頭に聴こえることはないと思います)、メールなど文章を書く時に最近になってようやく少しずつ文章の波が減ってきていますが、なんとなく文章を自然に書けないというかおそらく「意識が分割されている」ということによって、ナチュラルに言葉が流れないような形で複数の人格がそれこそ組み合わさったような形の文章しか書けなかったんだと思います。
意識がそもそも分割されているということ。解離性障害は「自己を分割してしまう」ことにその症状の発端はあります。それはトラウマ的な傷に対してそのようにして対処してしまうということです。
この点については、次の本で知りました。
いわく、
物語の機能が衰弱すると、出来事があまねくトラウマ性を帯びる。起こったことを経験に落とし込むこと、そして一貫性を紡ぎだしていくことが困難な課題となる。
このような状況で、自己は同一性を保つことができるのだろうか。生き抜くためには、あえて分割をせざるをえないことも起こりうるだろう。いわゆる「解離」という様態である。
トラウマをこうむったとき、自己はその治外法権の場を別の人格に抱え込ませることがある。いわゆる交代人格である。身代わりであり、犠牲者としてのもう一人の私である。それは悲惨な現実を一手に担っている。かつて多重人格は、精神科医が一生に一度会うか会わないかというほど稀なものであったが、今やかつてそれほど珍しいものではなくなった。
私においてもその「自己の分割」の問題はあったと思います。私自身はそれは幼少期にあったのではないかと思います。
そのなかで、自分の文章の書き方をどうにか矯正していきたいです。そうすることで自分の存在を見つめ直していきたいです。
自分の存在についてはやはり自分でも困難な経験をしているとは思います。特に「解離」と考えることについてはそうです。たとえ「身代わり」の人格だったとしても、その「人格」で生きてきた記憶は自分のなかでやはりあります。
かつてとは「人格」が異なったとしても、自分は自分であって、当時のいわゆる「主人格」だった人格についてどうしてその存在は様々な苦労を感じているのか、その人格は何を感じていて、今の自分にどうして欲しいか、そのことについて考えていきたいです。
自分はたぶんこれから困難なこともあるかと思います。
その「身代わり」の声を聴くことは私の人生の課題となるような気がします。
「解離」を生きるということ、それは私が感じている主観空間と同じような世界を生きている人にとって、一体どういう仕方で「回復」また「治癒」ということを考えたら良いのかということ、その問題と表裏一体なのでしょう。
私は自分は決して人格としてすごく良かったとは言えません。
そのなかで反省もしながら、自分のただ毎日を思索しながら生きて、そしてそのなかで感じたことを言葉にして、一人という孤独はあるかもしれないけど、自分の思索が後世の役に立てばなと思っています。