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私に対する精神的注釈

自分なりに自分の今の症状について考察することが出てきたので書いていきたいと思います。
自分は「眼差しとしての私」と「存在者としての私」について柴山雅俊さんの議論に対して参照を行ったけれども、そこで大事なのはその2つは交代しうるということだった。

「存在者としての私」とは、この世界のなかで、この世界のさまざまな関係に縛られ、そこから逃げ出せないでいる「私」の在り方である。そこでは世界のほうが私に眼差しを向け、自己は世界の刺激に過敏になっている。「眼差しとしての私」とは、そのような世界から離脱する「私」である。「眼差しとしての私」は「存在者としての私」に対して、他人事のように俯瞰する眼差しを向けている。このように「存在者としての私」は見られる「私」であり、「眼差しとしての私」は見る「私」である。眼差しは「眼差しとしての私」から「存在者としての私」へと向かう。この二つの「私」は交代しうるものとしてある。すなわち「存在者としての私」に片寄って「私」が体験される場合が過敏であり、「眼差しとしての私」に片寄って体験されると離隔になる。

柴山雅俊 『解離の舞台――症状構造と治療』 金剛出版、2017、63-64頁、太字強調はブログ作成者。

「眼差しとしての私」の関係はこのように人格交代を思わせるところがある。「眼差しとしての私」はもう一人の私であり、「私」の「かげ」である。ふとした意識の変化によって、「私」は「かげ」から見られる「存在者としての私」になる。そしてまた見られる存在は、その「かげ」である「眼差しとしての私」へと反転し、交代する。「眼差しとしての私」と「存在者としての私」のこうした反転・交代は解離性障害に特有の構造であり、時間的変容へとつながっている。

柴山雅俊 『解離の舞台――症状構造と治療』 金剛出版、2017、101-102頁、太字強調はブログ作成者。


私はその両方が交代しうるということを念頭に置いて、どちらにしても「存在者」としての立場からベタに言葉を書いていくべきなのかなと思った(つまり、自分がベタに女性人格である時、「存在者としての私」として女性である時は女性の言葉で、ベタに男性人格である時は、「存在者としての私」として男性である時は男性の言葉で)。
自分の言葉が地面に着地していること。ベタな地点から言葉を話すこと。
それは大事なことのように思われる。その点で言うと、一つ前の記事については完全なボーカルレコーディングで、「眼差しとしての私」、その時、いわば表に出ていない人格が離人的に言葉を発している状態なのかなと思っていた(その点でいわば実験的なものであったことをここにお断りしておきたい)。先ほどの引用で言うと、自分に対して「他人事のように俯瞰する眼差し」を向けている自分の視点から言葉を発しているのだと思われる。その点については前の記事はミスリーディングなものだったと思います。
自分は「男性人格」が表に出る時もあるし、「女性人格」が表に出ることもあるけど、その時に自分のその時裏地にある「眼差しとしての私」から、いわば今目の前に存在している自分が「他人事」として感じられる視点から、そのいわばメタな視点から自分が世界に対して言葉を発するべきではないのかなと思いました。

どちらにしても、自分はベタな視点から世界に対して言葉を発していくべきなのだろうか。つまり、ベタにその時「存在」している自分の視点から言葉を発していくべきで、その時、裏に引いている自分の視点からは言葉を発するべきではないのではないだろうか。その点については、まだ自分では完全に答えが出ていないところではあります。
でも、自分はもしかしたらもう今は女性サイドでしか社会的にまともなことは言えないのかもしれないです(男性人格については、このあと後述しますが、その男性人格の思考を私が翻訳するという形で私の言葉のなかに再度表現することでしかその働きを現実的にすることができないのだと思います。)
自分自身その点については、社会的自我が女性で、それに対していわばジキルとハイドのうちハイドの位置にするのが男性の自我だと思っていました。その点については、『私という他人』のなかで、イヴ・ホワイトとイヴ・ブラックとジェーンという3つの人格が出てきていることが関連しているのかもしれないと思いました(ここで関係があるのは、イヴ・ホワイトとイヴ・ブラックとの対立だけになるのかもしれないです。なので、イヴ・ホワイトとイヴ・ブラックとの関係だけについて話したいと思います)。

この不幸な妻をおびやかしている幻の声は、イヴ・ブラックが自分で出しているのだと主張している。頭痛発作、そしてこれよりもはるかに重大な、耐えられないほどの不安発作、さらに人格の崩壊が差しせまっているという感じ、これらはすべてイヴ・ブラックの、肉体の支配権をにぎり、ライバルに
とって代わり、出現しようとするもがきによって起こるもののようである。

H・M・クレックレー、C・H・セグペン 『私という他人――多重人格の精神病理』 川口正吉訳、講談社α文庫、1996、97-98頁。

イヴ・ブラックとイヴ・ホワイトとが実際に心のなかで争っている。それは、実際には一人の自分のなかでの二つの人格の争いということになります。それがずっと起こっている状態になっている。自分自身も心のなかで断片的に聴こえる(あるいはある時間帯においては継続的に進行する思考として、片割れの人格の声をずっと聴いているので、その声はハイドの声というべきかもしれないけれど、そのハイドの声を自分の心といわば錯覚していたのか、そちら側で無理やり言葉を話そうとしたり書こうとしたりしていた(実際には書くことには成功していた、ただしそれは現実において何らかのディスコミュニケーションを発生させていた)ことで、現実のコミュニケーションに歪みが発生していたことは事実だと思います。)

この点について、念のため注釈的に先程の引用箇所の前の部分を引用すると、次のようになります。

もしこのイヴ・ブラックがほんとうに一つの人格(少なくとももう一つの人格といえる程度のもの、いや人格という言葉で表現されるあるものの一つの位相)であるとすれば、では置き換えられたもう一つのもの、みずからイヴ・ブラックと名のり、人もそういいならわしている元の人格は、いまどこにいるのであろうか。彼女たちを「分裂した人格」と呼ぶことはまぎらわしくはあるまいか。むしろ、一個の人間的全体が、ある機能的分裂を経て割れた二つの位相、あるいは部分とみなすのが、より正しくはあるまいか。

H・M・クレックレー、C・H・セグペン 『私という他人――多重人格の精神病理』 川口正吉訳、講談社α文庫、1996、76-77頁、太字強調はブログ作成者による。

こうしたことを踏まえて、自分なりに二つの位相に分かれている自分がいるというなかで、どうして「眼差しとしての私」から書いてはいけないのかということはこれは私は相手と面と向かって接している時にはそのような「背後の自分」が話し始めるということはないからだと思っています。それは対面関係においては抑圧される。なので、それはネットにおいても抑圧されてしかるべきではないかと思いました。

そして、二つの位相という点に戻って、自分はその意味でジキルとハイドみたな性格をまだ抱えていると思います。自分のなかでハイドの思考がかなり強くなる時があり、その意味でハイドは思考能力はかなりあるのですが、でもジキルのように心がまともではないから、人とコミュニケーションするのがかなり難しいです。ジキルのように社会的にまともではないから、どんなに考えていてもそれを人前で言えなくて、すごくフラストレーションが溜まります。
でも、そのハイドの思考を自分は論文で表現できたんだと思います。
その意味で自分にとって論文というのは抑圧された人格の思考を表現するもっとも良い場所だったのだと思います。
ただ、論文を書いてもその内容について人とやり取りをしてコミュニケーションをして、人間関係を作っていかないといけないという時にそのハイドの思考そのままだったら、人と上手く関われないということに気づきました。

私はこれは自分でして良いことなのかは分からないけれど、自分を自身、脱男性化した方が良いなと思い、自分はもともと子供の頃から女性のことに対してそういう下着を着たり、女性の仲間になりたいなと思っていたから、
現在、男性のハイドの方がかなり日記で書ける内面の問題についてかなり悪化しているところがあり、たとえ役割演技として男性を演じられたとしてもその内実としては良心がないもしくは破壊されている男性にしかなれないから、それであれば、自分は脱男性化して発生している女性の意識の方を頼りにしたほうが良いのかなと思うところがありました。(それはいわば人為的に作り出した人工意識としての女性意識でしか今上手く社会のなかで言葉を話せないということだと思います。念のため書くと、それは対面相互作用という関係性においては自分はまだ男性のキャラで話すことというのはあります。)

解離の問題は難しいです。大人しい子にだってとても攻撃的な人格が宿っているケースもありますし、そのケースにどうするのかということはあります。自分自身、良心がない思考だけがある男性のような人生を20代のうちに送ってしまい、その意味でそれはハイドだったというべきだと思うのですが、それは確かに解離があったのかもしれないです。

そんな自分に対して今もやはり心が分裂した人間と接していると思っていただけた方が良いです。
自分はある意味で精神的に双子のようなもので、今は女性の方が社会的だからいわば女性的な基本人格の年齢の人格の方で人と接しているということだと思います。
男性的な主人格(ハイドの方)は今はやはりちょっと危険な状態で、出たら誰かを傷つけてしまうかもしれないから、出せないです。ただ、その思考を私が翻訳して私の言葉のなかでその思考を再度外部化していくことはできます。実際そのようにしてこのnoteにも外部化している側面はあります。それによってしか自分のハイドの思考は安息しないのかもしれないです。つまりそうしないとどんどん亢進していって自分が危険な状態になる。)

解離に関して治療を受けています。そこででももしかしたら自分はシスジェンダー中心主義的に、私は「男性だ」「男性という身体に合った自我を持つべきだ」という思想とは距離を置いて、トランス女性に対して近づけるようなそういう仕方の方が良いのかもしれないです(ただ、いわば自分をトゥースピリットとして自分を位置づけることもできると思います。)


ただ自分自身、ハイドの思考というのがまだ解離性幻聴として聴こえているなかでまた身体反応が出そうになるのを抑えて女性人格(ジキルというか基本人格の方)で人と接しているので、それは私にもいわば精神的コルセットのようなものとして働きますし、

私はそれで良いのかなと思います。(実はここで改行することには何らかの意味があるのではないかと思います。言い換えると、ブログの文章で改行を多発させること、その改行を行う心理というのはどういうものなのかという点には私は興味はあります。)

このブログで最初に書いた「眼差しとしての私」としてその時は話してはいけないのではないかというのは、それはメタになりすぎているからです。
私自身が経験していることをあくまでも現実との対応に基づいて話していくべきで、例えば今日はここに行ったとか、こんな人と話したとか、そういうことに基づいて書いていくべきなのかなあと思い、

ここでは色々自分に関してエクリチュールのいわば実験をしている場所にはなっているけれど、ベタに話すことを話すのが良いのかなあと思います。

最近、『キリエのうた』という映画を観ました。私にとってはこの映画は精神的に解毒剤のようなものだったと思います。

自分自身自分の内面の問題で精一杯でそれが人から見えてしまうことを恐れていたけれど、自分が世界の一部のなかで他者と交感し合って、眼差しを交わして生きている世界を大事にしようという気持ちが少し自分のなかに現れたからです。

自分もnoteで色々書いてきていたけど、たしかに幻聴が自分に降ろされてくることもあったけれど、まず生きている世界を大事にしようと思って、自分も変わろうと思いました。
(私のnoteの記事が記事ごとによって人と継続的に肯定し合うものになっていないのは、そもそも自分はインターネットにおけるフィルターバブルに対して非常に批判的に考えているところがありまして、フィルターバブルをむしろ突き破るような言葉を言ってしまうことで、人とホモフィリーな関係を持つこと自体を抑制しようとする精神の働きがあることをここにその理由として挙げておきます。)

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