見出し画像

『電子メディア時代の多重人格』という本を読んだ。

【忙しい人向けの内容のまとめ】
・スマートフォンとパソコンによってそれぞれ別々の自分が言葉を書き始める。→スマートフォンでは基本人格、パソコンでは主人格が文章を書きやすい。
・人に「表」「裏」があること、アーヴィング・ゴッフマンの表局域と裏局域の概念の関連して、その「表」「裏」があることは自然なことなのだろうか。
・基本人格は「裏」で、主人格は「表」。
・基本人格と主人格での文体の差がある。主人格は短い文章の積み重ねが多い。基本人格はもう少し長い。
・自分をXジェンダーという観点からすると、「不定性Xジェンダー」、「両性Xジェンダー」ということになる。(「男性の意識」と「女性の意識」があるケースということになる。)
・こちらの「男性の意識」はロゴス(話し言葉)に近く、「女性の意識」はエクリチュール(書き言葉)に近い?
・「主人格」を保つことに緊張がある。

多重人格ということに着目して、この本は書かれている。電子メディアによって自分の文化的身体から話されて、自然な身体が形をなす。そのなかで、例えば、自分の身体は実際に男性なのに、女性の形で話すこともできるようになる。
それが生んだトラブルについても(ジュリー・グラハムの事例)書かれていた。
僕は制度的には男性の制度に合わせて生きているから、主人格は男性ということになる。
ただ、実際にこうした一人称「僕」で書いている言葉と、そうではない言葉があり、確かに人によって人格を合わせながら話しているのかもしれないと思う。
その人格の問題があるなかで、ひとつの身体にひとつの自己が対応しているという常識的な理解があるなかで、実際にひとつの身体に複数の自己が宿るというのが多重人格の事例なのだと思う。

僕は例えば、アーヴィング・ゴッフマンの表局域と裏局域の議論、そして、平野啓一郎さんの分人の議論について親しむなかで、確かに僕はこれは一種の交代人格の一つなのかもしれないが(主人格も実際にはオルター(交代人格)であるという理解について『接続された心』というシェリー・タ―クルの本で読んだ)、実際にはこの人格あるいは、ジョン・ロックの「人格の同一性について」の議論を受けると、意識のアイデンティティについても、実際に社会で仕事をしてきたということになり、実際に自分の人生のうち半分くらいはこの人格で人とやり取りしてきたということがあるので、これはこれで残して良いのではないかと思うようになった。

実際に、これを「表」の人格と見なして、「裏」の人格は基本人格が担っている。それは、柴山雅俊さんの『解離の舞台』にあるような「眼差しとしての私」(=「切り離された私」、私の場合は基本人格)、それから「存在者としての私」(=「切り離した私」、僕の場合は主人格)ということになっているので、この「表」を主人格に、「裏」を基本人格にという対応のさせ方自体は誤っていないとは思う。

僕のこの事例のなかで、何が今考えないといけないかというと、自分は人にどう自己呈示していかなければならないかという問題である。僕のこの人格は確かに短文中心で言い切りが多い。それは文体であるが、それは実際には思考の特徴である。短文にできるだけするように、という指導が大学院であったからだと思う。

ただ、基本人格はもう少しワンセンテンスが長い。そしてたぶんより女性的だと思う(実際、女性的な意識だと思うし、前回も女性人格だと書いた)。人間は確かに仮面を使い分けて生きているところがある。僕自身もこれは主人格ということだから、社会的な仮面(ペルソナ)であると思っている。

ただ、僕自身、男性の哲学者の思考を追うことが多かったので、どうしても思考をする時は男性の主人格でした方が上手くいく。実際に、その欠点もあるのだろうが、実際にはこの人格で書いた方が上手くいく時は多い。

自分はパソコンでだけ人とはメールをするべきなのかなと思う。実はこうして文章を主人格で書いている時は緊張しているので、それを表局域から降りた時、(いまおもてきょくいきと入れて変換したけど)つまり基本人格のモードで自己が起動している時にはその主人格を再現できないという問題がある。実はスマートフォンには自分の基本人格の自己が宿っているように感じる。だからスマートフォンでは自分の主人格で書くことが難しい時がある。

パソコンは主人格が宿っている。だから、パソコンで書く時の方はこうした主人格での文章が書きやすい。

自分は大学院で研究をしていた。だから、このような文章を書く時に使っていた意識の存在も、これからもし論文を書くのであれば、必要になってくることであろう。

自分はこれはXジェンダー的な事態だと思っている。『Xジェンダーって何?』という本によれば、「不定性Xジェンダー」や「両性Xジェンダー」は「男性の意識」と「女性の意識」があるらしい。

Xジェンダーは疾患名ではない。

自分がこうして「男性の意識」を使って文章を書く時、そこにはデリダが言うようなロゴスの問題が関わっているのかなと思う。
ロゴスとエクリチュール。実際はこの言葉はロゴスに近いのかもしれない。

エクリチュールは書き言葉。

ロゴスは話し言葉。

実際に、エクリチュールで人とコミュニケーションする時は、非男性的な仕方になる。

男性的な言葉と女性的な書き言葉。

実際には自分には「男性の意識」と「女性の意識」があり、それが混線することがこうして書く途中にもある。

その「男性の意識」と「女性の意識」のどちらを中心に定めるかで、自分には2つの一人称の範囲ができてくる。

実際にずっと「表」でいることは辛い。それはまるで舞台で演劇をしているような感覚だから。

ただ、そうして求められた役割を演じている人は多いのではないかと思う。

ここ最近、日記を書く時にこの「僕」ではない女性的な「私」を中心に組織化される自己の存在を感じる。

ただ自分の社会生活上、どちらかを消滅させるのは難しいだろう。なので、しばらくは両方を共存させる仕方で、活動していくしかないのかなと思う。

そうして活動していくしかないのか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?