誰にも何かを見せることなく、ただ言葉を見せる

言葉を見せるということは実際にどうした意味を持っているのだろう。実際に、言葉を見せること、そして実際にそこで何かを思考すること。その両者にはどうした関係があるのだろう。そうした実際の出来事において実際に何かを思考すること、それらは一体何になるのだろうか。
実際に現実的に何を思考することができるのかということはまだ問題となっているのだが、実際にそこで思考することが何かをもたらしてくれるのであれば、それはどのようにしたら、受け取ることができるのだろうか。
そのことをただ自分のなかで思考している。
思考することにおいては確かに辛いことがあるのだが、継続して何かを書いていければ良い。
何を自分の思考として行けば良いのか、そのことを考えねばならない。

また、自分の性について、自分は自分のことを性的少数者だと思っている。その意味で、自分は規範的な男性像からは隔たっていることを感じている。

規範的な男性像とは異なるものとして、自分という一人の男性について考えて欲しいと思う。

その自分というものをどう今後、言葉の質料としていけば良いか考えたい。

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