見出し画像

節目と人生の責任

※今回も勢いで書いてます。お許しを。



特に急いでなければ、各駅停車の電車に乗って帰るのが好きだ。

ゆっくり進む車内で景色をボーッと見ながら、ああでもない、こうでもないと考える時間がたまらなく愛おしいのだ。

7月が終わる。

たかが1か月されど1か月で、
このひと月で過去の様々な答え合わせが一気に行われた。

人生初の結婚式参列、友人や家族との会話、目にしたもの、偶然聞こえてきたもの。

それらがまるで示し合わせたかのように、これまで私が抱いてきた疑問に答えを生み出させた。

自分の生き様を見つめ、美しさとは何だ、生きるとは何だと問い続けてきた答えが、少しずつではあるが確実に形を帯び始めている。

私は生きる中で、自分の為に生きる事と、人の為に生きる事のどちらかを選ばなければならないと思っていた。

だが、違った。

それらに是非はなく、表裏一体なんだと。

自分の為に生きる事は人の為に生きる事であり、人の為に生きる事は自分の為に生きる事なんだ。

私はずっと「結婚する意味」が分からなかった。
しかしこのひと月で、見えてきたものがある。

恩師の結婚式に参列して、幸せそうなふたりを見た。
同僚に恋人が出来、来年には同棲をするという報告を受けた。
「結婚したら教えろよ~」という先輩からの茶化しに、「はい」と真っ直ぐな返事をした彼の真剣な表情を見た。

……そうか、私は何かを守る勇気がなかったんだ。
責任を負うことが怖かったんだ。
だがこの人達には愛以上の覚悟があり、守ることを決めたんだ、これからの2人の人生を。

人生には必ず苦難が伴う。
その苦難こそが人の美しさを作るんだ。

努力する人は美しい。

それは決して比喩ではない。
その姿が本当に輝いているという意味で美しく、品がある。芯がある。

芯は、苦難から生み出される覚悟から生まれ、これらが集まって、美しさが宿る。

私は観劇が好きだ。

これまでの人生、演目の主題について考える事は幾度とあれど、主に役者や世界観に夢を見出し、癒しの手段として楽しんでいた。

それが観劇というものだ。何も間違ってはいない。

だがある時、そこに立つ役者の「役の向こう側」が見え、それがとてつもなく美しく思えた。

もちろん、稽古場を見たわけでも、言葉の意味通り本当に透けて見えた訳では無い。

ただ、少し見えた気がしたのだ、その人の背負うものが。努力が。

それも舞台が生み出した夢に過ぎないのかもしれない。

だがそこに感じた美しさは、ゆめゆめしい作られたものではなく、人間の内から解き放たれたものだった。


……私は未熟だった。

どうしたら美しくなれるのか、人の色気はどうやって生まれるのかと考え、「何か」を行えば手に入れられると思っていた。
なんて安直。
それ程の苦難に直面したのか、努力をしてきたのか、私は。
逃げるだけの人間に、どうして美しさが備わろう。

生きる意味とはなんだ、人生とはなんだ、結婚とはなんだと問い続け、議論はせど、自分なりの答えを見出すことをしていなかった。

そりゃ楽だ、「答え」がなければずっと浮遊しているのと同じ。
答えを生み出したという責任から、永久的に逃れ続けられるのだから。

私がしてきたことが「考え」だったのかは、今となっては分からない。
もはや、考えるという名を借りた、ただの自己陶酔に過ぎなかったのやもしれない。

ただ、どんな時も人生に責任を負う覚悟をしなければならないという「答え」を見つけた。
私の人生にも、時には他人の人生にも。

この1ヶ月で、これらの事に気付かされた。
まさしく「気づきの月」、節目の月。

8月はもうすぐそこだ。
列車は止まらない。
何かが始まる予感がしてる。



いいなと思ったら応援しよう!